東神戸教会
〒658-0047 神戸市東灘区御影3丁目7-11
TEL & FAX (078)851-4334
 
Topページへ戻る
教会の紹介
礼拝のご案内
集会・活動
行事のご案内
メッセージ
牧師のページ
東神戸教会への行き方
HOME > メッセージ
メッセージ   2013年のメッセージ



『 誓いを立てる 』   民数記30:1-6(1月6日)

新しい年を迎えるこの季節は、
あちこちで新たな思いで誓いが立てられる時期でもある。

誓いを立てる。約束を表わす。
そして、そのことに向けて歩みを進めてゆく。
それは未来を先取りし、目標を抱いて生きるという、
大変前向きな生きる姿勢を表わしている。

結婚式における新郎新婦の誓い。
高校野球やオリンピックの選手宣誓。
選挙の候補者による選挙公約。
そこに向けて打ち込む人の姿は、とてもよいものだ。

しかしそのように立てた誓いの言葉であっても、
その通りの生き方を貫けるかというとそれはまた別の話である。

結婚式で神妙な表情で共に生涯を歩むことを誓ったカップルも、
しばらくの共同生活の後、残念ながら共にいることが難しくなるケースもある。
フェアプレイを誓ったオリンピックで、
毎回取り上げられるのがドーピングによる不正疑惑である。
政治家の選挙公約に及んでは、「何をかいわんや」である。

人間は弱い存在であり、一旦は真剣に誓ったそのことに、
永遠に忠実であることは困難であるということ。
そんな一面を忘れてはならない。

今日の箇所は誓願についての規定である。
「誓願を立てたならば、その言葉を破ってはならない」(3節)。
これはイスラエルのみならず、人間社会における常識的な定めである。
ところが、4節以降に次々に述べられているのは、
そのようにして立てた誓願についての取り消し方である。

古代の父権制社会の価値観が反映されているため、男性中心的な記述が続くが、
言われていることは、「たとえ本人が真剣に立てた誓いでも、
家族の同意がなければ無効になることがある」ということだ。
そこには、誓いを立てる人間の未熟さ・不完全さへの目配りが感じられる。

「軽はずみな物断ちの誓い」(7節)という言葉から連想するのは、
「熟慮することなく、その場の雰囲気で勢いで立ててしまった誓い」である。
そこにどんなに本人の「私は揺るぎない!」という主観的な決断があったとしても、
親権者・家族としては賛同できないことがあるということだ。

特に、自分の利益・自分の欲望に基づく誓いであるならば、
そこでどんなに厳しい「物断ち」がなされたとしても、
それは自分の願いを叶える神を求める心理であり、
聖書の禁じる「偶像崇拝」に他ならない。

イエスは「一切誓ってはならない」(マタイ5:34)と言われた。
誓いを立てようとする人間の不完全さを、イエスは見据えておられた。
自分の髪の毛一本すら白くも黒くもできない人間が、
未来のことについて、それを先取りして誓うようなことは慎みなさい...
そう教えるイエスの言葉である。

では私たちはイエスの教え通り、一切誓ってはならないのだろうか?
いや、神に喜ばれる誓いの言葉もあると信じたい。
それは、自分の利益・欲望のための誓願ではなく、
隣人のため・社会のために立てた誓願だ。

「自分を愛するように隣人を愛する」そのために立てた誓願であるならば、
結果的に完璧に果たされることにならなかったとしても、
それは神の喜ばれる誓いの言葉となるだろう。




『 権威ある言葉 』  ルカによる福音書4:31-37(1月13日)

「問題提起の教区」である兵庫教区が、
ひとかたならぬ熱意で関わってきた課題の一つに「教師制度問題」がある。
教会の教師(牧師)を認定し任職する制度の在り方についての、根本的な問題提起である。
いくつもの論点があり、今日すべてに触れることはできないが、
問題点の一つに「教師の権威主義」がある。

教区総会では毎回教師を任職する式が行われる。
補教師を任職する儀式を「准允式」、正教師を任職する儀式を「按手式」と言う。
「按手式」とは文字通り正教師となる人に「手を置いて祈る」儀式であるが、
数年前、この按手が「権威の授与につながるのではないか」という議論から、
「手を置かない按手式」が行なわれたことがあった。

按手式では、正教師になることを願う人々(2~3人から多くて5~6人)を、
何人もの人が取り囲んで手を置くのが習わしである。
手を置くことができるのは正教師のみ。補教師や信徒は入れない形が多い。
「権威の授与、権威主義につながる」という指摘にも一理ある。

しかし大切なのは、儀式のやり方そのものよりも、
それを受ける教師(牧師)の意識の問題であろう。
按手を受けることによって、これから始まる働きに対して、
居住まいを正し緊張感を持って臨んでいくのであるならば、それは意義あるものだと思う。
しかしそれを受けて「これで自分は一人前、立派な牧師になれた!」と思うならば、
「権威主義」の批判は免れ得ないであろう。

イエスは弟子たちに「人に仕える者となり、みんなの僕となりなさい」と教えられた。
人を教え導く立場の人は、常に権威主義の誘惑に打ち勝たねばならない。
自分自身の資質を振り返り省みることなく、権威によりかかって発言し行動する人は、
いつしか権力を振りかざすようになる。イエスはそのことを知っておられたのだろう。

安息日に会堂で教えを始められたイエスの言葉に対し、これを聞いた人々は非常に驚いた。
「その言葉には権威があったからである」と記されている。
マルコでは「律法学者のようにではなく、権威ある者のように語られた」と記されている。

なだいなだ氏によると、権威とは本人がひけらかすものではなく、
周囲の人が自ずと抱かさせられるものである。
それに対して権力とは、その権威が薄れ始めた中で、
一定の拘束力・強制力(罰則)によって従わせるものである(『権威と権力』より)。

律法学者たちの多くはユダヤ教の宗教的体系である、律法の権威によって発言し行動した。
その伝統や体系の内容を問うことなく、
一種の思考停止に陥ったまま、律法を権力として振りかざした。

これに対してイエスは、既存の権威や定型によりかからず、とらわれないで、
自分の考えと自分の責任で発言し、行動された。
その事実が人々に驚きを与え、その言葉を「権威ある言葉」として受けとめさせていったのだろう。

私たちにはイエスのような「権威ある言葉」は語れないのかも知れない。
語らなくてもいいのかも知れない。
しかし自分自身の中にある権威主義に関しては、これをしっかり見つめ克服し、
思考停止に陥らず、自分で考え自分で悩み、自分の言葉で語り、行動する者でありたい。




『 敵との向き合い方 』   民数記31:1-6(2月3日)

旧約聖書の中には、どのように解釈すればいいのか頭を抱えてしまうような、
理不尽に思える内容の物語がいくつも記されている。
今日の箇所はその最たるものと言えるであろう。

「約束の地」に向かう旅の途上、ミディアン人に対して神が報復を命じる。
かつてミディアン人女性の誘いにたぶらかされて、
イスラエルの幾人かがバアルの神々を拝み、宴席に加わってしまった。
偶像崇拝の罪を犯したイスラエル人たち。
その罰として2万4千人もの人が命を失った。
イスラエルがこうむったその損害に対し、復讐せよというのである。

この言葉を受けてイスラエルは部隊を作り、ミディアン人の地に攻め込んだ。
イスラエルの部隊は敵の部隊を打ち倒し、戦いに勝利した。
女性や子どもたちは捕虜とし、家畜・財産を奪い、街を焼き払った、と記される。

報復のための戦争。これも現代ではすんなりと認められない事柄である。
しかし古代社会にはこのようなことが「通常」の事柄だったのかも知れない。
承服しかねるのはその後の出来事である。

戦いに勝利をし、捕虜たちを連れて帰ってくる兵士たち。
その姿を見て、モーセが激しく怒ったと記されている。
その理由は女性・子どもを生かしておいた、ということである。
「情けをかけた」ことに対して「みな殺しにしろ!」とモーセは命じるのである。

聖書は「神の言葉」と言われる。
しかし今日の箇所のような言葉を、「はい、そうですか」と
そのまま受け入れることは私にはできない。
むしろ反面教師的な読み方をせざるを得ないと感じる。
一見して「ひどい!」と思う箇所だけど、同じような思いを抱くことが自分にはないか、
そのように自らを戒める思いで受けとめたい。

敵対・対立する相手を殲滅することまではしなくても、
その相手が「いなくなればいい」と願うことは、
私たちの心の内では起こりうることではないだろうか。
その時私たちは、今日の箇所と同じ方向を向いて生きていることになる。

対立する人とどう向き合うか。
その課題を果たすために、私たちは「敵をも愛しなさい」と教え、
その教えの通りの生き方を示されたイエス・キリストの歩みに立ち戻らざるを得ない。

ダライ・ラマはこのイエスの「愛敵」の教えを受けて、こう語る。
「敵がいるということは、自分の寛容と理解と忍耐を深め、成熟するチャンスなのです。
 その機会に正しい態度を養うことができれば、敵の存在は霊性を高めるための教師です。
 寛容、忍耐、慈悲の心、そこから利他心への道が開かれます。
 だから霊性の道を歩むために、敵の存在は欠かせないのです。」
              (『ダライ・ラマ、イエスを語る』より)

ここまでの心境にたどり着くことは、私たちには無理かも知れない。
しかし「敵との向き合い方」において、相手を抹殺して良しとする旧約の教えを離れ、
イエス・キリストの教えに従う道を求め続ける者でありたい。

  ♪「仲良くならなくてもいい」(これもさんびか)

   あの人が キライ! 
   どうしても好きになれない
   けれどイエスさまは 教えてくれた
   仲良くならなくてもいい
   認めなさい それが愛すること
 
          (平良愛香 作)




『 旅空に歩むイエス 』  ルカによる福音書4:38-44(2月10日)

以前、講談社から出ている『福音書のイエス・キリスト』というシリーズから、
それぞれの福音書につけられたタイトルを紹介したことがあった。
マルコは『十字架への道イエス』、
マタイは『旧約の完成者イエス』、
ヨハネは『世の光イエス』。
それぞれその福音書の内容と特色をよく表している。

ルカにつけられたタイトルは『旅空に歩むイエス』というものである。
イエスに限らず、昔から宗教者には遊行の民が多い。
定住することなく、新たな出会いを求めて旅をする人々。
ルカの描くイエス、そして続編である使徒言行録の弟子たちも、旅を続ける人たちである。

キリスト教という宗教は、自分たちの信じる教えを人に伝えようとするベクトルが
非常に強い宗教である。その源が、ルカに記されたイエスの姿にあるのかも知れない。

今日の箇所は港町での出来事を記しているところである。
イエスが後に弟子となるシモン・ペトロの家を訪ねられた。
その時シモンのしゅうとめが高熱にうなされて寝込んでいた。
シモンがイエスに癒しを願うと、イエスは熱を叱りつけられた。
すると熱は下がり、しゅうとめは癒された、と記されている。

癒されたしゅうとめは「一同をもてなした」と記される。
「もてなす」と訳された「ディアコネオー」というギリシャ語は、
他の箇所では「仕える」と訳されている。
男の弟子たちは「仕える」。女であるしゅうとめは「もてなす」。
そこに男性中心的な価値観による翻訳作業を指摘する声もある。
しかし別の見方をすれば、病気を癒してもらった彼女が、
感謝の思いで自分の出来る限りのことをした、と捉えることもできるだろう。

翌朝、イエスは人々の元を離れ、人里離れたところへ祈りのために出て行った。
人々はイエスを探し回り、ようやく探し当てると「私たちから離れないで下さい」と願い出た。
頼りになる人はいつもそばにいて欲しい...そう願うのは自然な思いだ。
するとイエスは「他の町にも福音を告げ知らせに行かねばならない」と言われた。
ご自身が限られた地域の一部の人のためだけに来たのではないことを示されるのである。

もしもイエスが人々の申し出を受けてその町にとどまられたならば、
イエスは町の人々との友好な交わりに囲まれて、そこそこ幸せな日々を歩めたかも知れない。
しかしイエスはその道を取らず、さらに新たな出会いを求めて旅立たれた。
「神の国の福音」すなわち、ひとりひとりの存在が尊ばれる世界。
そんな世界の使信を必要としていた人々は他にも大勢いたからである。

だからイエスは旅を続けた。旅空に歩み続けた。
そしてその道の行く末に待っていたのが、十字架の苦難であった。
だがその福音を伝える歩みは弟子たちに引き継がれ、さらに世界へと広がった。
そのさいはてに、私たちもまた「神の国の福音」を知らされる者となった。

そのようにして受け継がれたイエス・キリストの福音を受ける私たち。
しかし私たちがその最終地点ではない。
イエスが目指した「神の国」。ひとりひとりが本当に尊ばれる世界。
そんな世界が実現する時に至るまで、私たちもまた福音のために働き、
それを伝えるために、旅を続ける者でありたい。




『 わたしは祈る 』  ルカによる福音書5:12-16(2月24日)

聖書を読む上での一つのポイントとして、翻訳の問題がある。
古典ギリシャ語で書かれた聖書原典を日本語に訳す段階において、
すでに何らかの解釈が入り込んでいるからである。
今日の箇所などはその典型と言えるであろう。

重い皮膚病を患う人がイエスの所に来て、言った。
「主よ、御心ならばわたしを清くすることがおできになります」(新共同訳)。
他の翻訳を見ると、「御意ならば...」(文語訳)、「みこころでしたら...」(口語訳)、
「お心一つで...」(新改訳)、「もしお望みなら...」(田川建三訳)となっている。

問題はそれに対するイエスの答えだ。
「よろしい。清くなれ」(新共同訳)、「そうしてあげよう、きよくなれ」(口語訳)。
これらの翻訳においては、あくまでも権能はイエスにあり、
イエスの許可を得て癒しが起こるというニュアンスを含んでいる。

しかし他の翻訳を見ると、「わが意なり、潔くなれ」(文語訳)、
「わたしの心だ、きよくなれ」(新改訳)、「望む。清められよ」(田川訳)。
癒しを「許可する」振る舞いとは少し違うニュアンスを感じる。
それは、癒しの出来事が与えられるよう、共に祈るといった姿と言えようか。

「重い皮膚病」と訳された言葉は、以前は「らい病」と訳されていた。
その病名の持つ差別的な響きを避けるために、訳語が変更されている。
新改訳聖書では「ツァラアト」というヘブライ語原語のまま記される。
この病気を患う人はその症状から、長い間歴史の中で差別されてきた。
聖書の時代においても共同体から排除され、差別的な処遇の中に置かれていた。

イエスの元を訪ねがこの人が、その病気を患って以来、
どれほどの苦悩、悲しみ、絶望があったことだろう。
そんな思いを胸いっぱいに抱えながら彼はイエスの元を訪ね、
そして癒しを願い出るのである。

そんな彼に対して、イエスは「みこころ」を自在に操ることができるような
「神の代理人」としての高みから関わっていかれたのだろうか?
むしろ同じいのちを与えられた地平に立ち、
その人の悲しみ・苦しみを想像し、受けとめ、
同じ思いに立とうとする中から癒しの道を祈り求めていかれたのではないだろうか。
そんな解釈を元に、今日の箇所を原典には記されない言葉を用いて補って受けとめたい。

 「重い皮膚病を患った人は、イエスのもとに来て言った、
  『主よ、あなたが共に祈って下さるならば、清められるかも知れません』。
  イエスは言われた、『わたしは祈る。あなたが癒されるように』。」

大きな苦しみを抱えた人と向き合う時、私たちに語れる言葉は少ない。
「神さまがきっと助けてくださるよ...」そんな言葉が信じられない夜もあるだろう。
しかしそれでも私たちには「共に祈る道」が残されている。
共に祈り合う関わりの中に、癒しの道も備えられてゆくことを信じたい。




『「みんな一緒」でなくても... 』  民数記32:16-27(3月3日)

人類は有史以来“群れ”を作って行動し、分業と共同作業によって生活を営んできた。
個体としては弱い存在にも関わらず生き延びて来れたのは、
みんな一緒に暮らしながら、互いのことを守り助け合ってきたからである。
「みんな一緒であること」。それを大切にする心は現代人の中にも刻まれている。

日本人はその「みんな一緒」という価値観が殊の外強い民族と言われる。
一説によるとその由来は日本のコメ作りにあるという。
コメの生産地としては北限に当たる日本では、
大変手間のかかるコメ作りを、共同性を重視して行なってきた。
みんなで決めたことに従って行動し、抜け駆けや非協力は許されなかった。
そのような中で「和」の精神が育まれ、気配りや勤勉性が培われた。
しかしそれは一方では、他者の行動を監視し、
自由を許さない“息苦しさ”としても作用することを覚えておかねばならない。

民数記の物語は、いよいよイスラエルの民がカナンへと進む場面を迎える。
神の約束の土地についにたどり着こうとする人々。
今日の箇所は、そんなさ中に起こったエピソードを伝えている。

イスラエル12部族のうち、ルベンとガドの二つ部族が、
自分たちはヨルダン川を越えたカナンではなく、
川の手前側・ギレアドの地に居を定めたいと申し出た。
家畜を多く飼っていたため、川を越えるのに困難を感じたからである。

この願いを聞いてモーセは始めは大変憤った。
「みんなでカナンへ行こうと盛り上がっている時に、
どうして士気を下げるようなことを言うのだ!」と。
するとルベンとガドの人々は言った。
「カナンに向かう行程(具体的には攻め上る闘い)には私たちも参加し共に闘います。
しかし移住を果たしたその後は、川のこちら側に住ませていただきたいのです」。
するとモーセはその願いを聞き入れたと記されている。

この不思議なエピソードはどんなメッセージを示しているのか。
それは「みんな一緒...じゃなくてもいい」ということではないだろうか。

「共に生きる」ということは聖書の語る大切なメッセージである。
イエス・キリストもそのことを一番大事な教えとして示された。
しかし私たちは「共に生きる」ことと「みんな一緒」こととを取り違えてしまう。
「共に生きるためにはみんな一緒でなければならない」ということになると、
至高の理想が人の生き様を抑圧するものとして作用する。

東日本大震災後、しばしば語られた『絆』という言葉がある。
人と人が絆によって結ばれ支え合うことは大切だ。
しかし固すぎる絆は、時に少し異なる人を弾き飛ばしてしまうことがある。
「みんな我がまま・勝手に生きればいい」というのではない。
しかし「共に生きる大切さ」を共有した上で、
ある程度の違う生き方を認め合うことは、大切な作法ではないか。

岩手県の沿岸部には「津波てんでんこ」という言葉があるという。
津波が来たら、人のことは構わず、各自バラバラに逃げろ!ということである。
最初この言葉を聞いた時、「親子の安否も確認できないとは、厳しい言葉だな」と思った。
しかしそれは違った。
「きっと母ちゃんたちも逃げてる」「きっと子どもたちも避難してる」
そういう互いへの信頼があるからこそ、咄嗟の時に「てんでんこ」になれるのだと言うのだ。

私たち人間には、生き物としての本性から「みんな一緒」に向かう志向性がある。
しかしイエスの示される「共に生きる」ということは、
「何でもかんでもみんな一緒じゃなくてもいい」と言い合える関わりのことなのではないだろうか。




『 非常識な信仰 』   ルカによる福音書5:17-26(3月10日)

2年前の3月11日。東北・関東地方の被災地では、すべての時が止まってしまい、
あらゆる予定がキャンセルされた。「それどころじゃない!」。
しかし、被災地を遠く離れた場所では、そうではない。
尋常でないことが起こったことは認識しつつ、それでも予定は遂行されてゆく。
「常識」の中で培われた感性は、
とっさの時にもその「常識」の範囲を外れる行動を躊躇させる。

イエスのもとに「中風を患っている人」が連れて来られ、癒された出来事である。
ひとりでは歩けないその人を、仲間たちが床を担いで連れてきた。
しかし大勢の人で中に入れなかったので、屋根をはがしてつり下ろした。
するとイエスは「彼らの信仰を見て」その人に向かって
「あなたの罪(=病気の原因)はゆるされた」と言われた。

ファリサイ派の人たちはこれを見て、心の中で思った。
「神の業である罪のゆるしを宣言するとは、神を冒涜する非常識な行為だ」と。
するとイエスは「人の子には罪をゆるす権威が与えられていることを示しやろう」と言い、
「立って歩け」と言われると、その人は立ち上がって歩き出した。

共観福音書に記されたこの出来事のうち、
屋根をはがす仲間たちの振る舞いをマタイは削除している。
「いくら差し迫った事情があったとしても、人の家の屋根をはがすのは非常識だ」
そんな考えがあったのかも知れない。
しかしそうして記されたマタイの記事は、イエスの権威を表わすだけの物語になっている。

けれども、この物語の一番大切な部分は、マタイが省いたまさにそこにあるのではないか。
仲間のことを思い、非常識な行為に訴えてまで癒しを願った人々。
イエスはそこに彼らの信仰を見られた。
そしてそれに応えるために、イエスは人間でありながら「罪のゆるし」を宣言するという
「非常識」な振る舞いを示されたのではないだろうか。

とかく「常識」にとらわれる私たち。
しかし「隣人の救いのためならば、時に非常識になれる」
そんな信仰があることをこの出来事から学びたい。

        (東日本大震災を覚える礼拝)




『 新たな出会いのために 』 コリントの信徒への手紙 Ⅰ 9:19-23(3月17日)

先日、同志社大学神学部の新卒業生を牧会に送る「予餞会」が行なわれた。
その時のスピーチで、かつての恩師が語られた言葉に「ハッ」とさせられた。
「若い皆さんには、とてつもない夢を抱いて歩んでほしい。
 例えば、『礼拝出席200名、うち半数は20代の若者』
 そんな教会を目指して頑張ってください。」

この言葉を聞いて、16年前、ぼくが東神戸教会に赴任したばかりの頃、
六甲山とキラキラ光る海を眺めて車の運転をしながら、
「この自由な雰囲気の教会ならば、いろんなことができる!」
そんなワクワクした思いを抱いた時のことを思い出した。
カーラジオからはウルフルズの曲が流れていた。

そんな頃、いつも心にとめていたのが今日の聖書箇所だ。
従来のスタイルにとらわれず、新たな出会いのために自由に変わっていける姿。
イエス・キリストの福音を届けるために、どんなことでも挑戦していける姿勢。
そんなことをパウロはここで語っている。

16年が経過し、みんなそれぞれ歳を取った。
36歳だった僕も、52歳となった。
当時、新しく始めようとしたことも、それが実現し、定着し、
それを維持することにエネルギーを注ぐようになった。

かつてのように新たなことにチャレンジしようという
そんな思いが少なくなっていることを感じている。

「教会は、新たな出会いを求めるところでありたい。」
その気持ちは今も無くなってはいない。
でもその気持ち通りに動いていない自分の姿を振り返ることがある。
そのことに対する忸怩たる思い。
それで恩師のスピーチに「ハッ」とさせられたのだろう。

イエス・キリストはまさにそんな「新たな出会い」のために、旅から旅への生涯を送られた。
そんな出会いを目指すために、私たちはどうすればいいのか。

自分自身は変わろうとせず昨日までと同じような振る舞いに生きていて、
「気に入った者はここに来ればいい」という態度では、
新たな出会いはそうそう生まれないだろう。

人間は保守的な生き物である。
度々変化をすると落ち着かない、めんどくさい、それで変化を嫌う...
そんなことがしばしば起こり得る。
そのような態度が「悪い」とは必ずしも言い切れない。
そんな本性を抱えていることも、私たちの偽らざる現実だと思う。
ただしそこにおいては、新たな出会いがなかなか得られないということも、
一緒に引き受けなければならない。

日本のキリスト教会は、放っておいても人が集まってくるような共同体ではない。
そんな場所で新たな出会いを求めるならば、
何もせずにじっとしていることは、得策ではない。
自分にとってだけ居心地のいい場所にしてしまうところには、未来は開けないだろう。

東神戸教会創立60周年を迎える今年、変えてはならないものと、
変えるべきものとをふさわしく見つめながら、
新たな出会いを求めて歩む教会でありたい。

         (教会全体修養会 発題メッセージ)




『 心が燃えたあのとき 』    ルカによる福音書24:28-32(3月31日)

イースターは北半球に住む人々にとっては、春を告げるお祭りでもある。
冬の間、死んだように静まり返っていた大地に、再びいのちが芽吹く季節。
ユリの花もイースターエッグも、いのちの再生の象徴だ。

死は終わりではない。
イエス・キリストのいのちは十字架上で終わってしまった訳ではない。
イエスは新たないのち、永遠の命となってよみがえられた。
そしてキリストを信じる者も同じように永遠の命に迎えられる者となる...
それが聖書の語るイースターのメッセージである。

だが近代の世界観、現代の科学的思考を深く刻まれた私たちにとって、
「永遠の命とは何か?」「よみがえりとはどういうことか?」という問いに、
明確なイメージで答えることは難しいことかも知れない。

宗教学者であった故岸本英夫氏は、著書「死を見つめる心」の中で、
「永遠の命」についての考え方を4つの分類に分けている。
①肉体の不老不死を願うもの。
②死後の魂の永続を願うもの。
③自己の命を限りないもの(例えば芸術作品)に託すもの。
これら3つがいずれも時間を延長しようとしているものであるのに対し、
4つ目のとらえ方として「今この時に永遠を感得するもの」を挙げている。

生きている者にとって、実は死は実体ではない。
やがてそれは訪れるが、しかしそれよりも確実なのは
「いま・ここに・生きている」ということである。
自分の肉体や魂が未来永劫に存続するという「時間延長」の考え方ではなく、
いま・ここにおいて生きること・生まれてきたことの意味を知り、
その喜びに満たされる、そこに「永遠の命がある」ということだ。

エマオに向かう弟子たちが、それとは気付かずにイエスと語り合い「心が熱くなった」。
そこに永遠の命がある、ということではないか。
そしてその思いが、まるで死んだようになっていた彼らの再生へとつながっていくのである。

東北教区震災支援センター『エマオ』には、多くのボランティアが集まった。
何度も繰り返しエマオを訪れた人も多い。
「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というイエスを教えを実践する中で、
みんな「心が熱くなった」のだ。
そこに「永遠の命」がある。
                     (イースター礼拝)




『 アジール ― 逃れの町 』    民数記35:9-15(4月7日)

旧約聖書に記される神の姿、
それは人間の悪に対し厳しい姿で臨む「裁きの神」のイメージが強い。
アダムとエバの楽園追放も、ノアの箱舟の物語も、
バベルの塔もソドムとゴモラも、基本的には人間の罪に対する神の裁きの物語である。

このような物語の背後には、古代ユダヤ人たちの人間理解がある。
「原罪」という言葉に象徴されるように、旧約聖書の人間理解は、
どんなに立派なすぐれた人でも罪を犯し得る存在だと言う「性悪説」である。
このような人間理解を元に、ユダヤの倫理観は組み立てられている。

「人間は常に罪を犯し得る存在であるが、
 神はその罪を隠れていても必ず見ておられる方であり、
 その罪に対しては厳しい裁きをもって臨まれる方である。
 だから人は自分をわきまえて、
 罪を離れ十戒・律法に従って罪を離れることを目指さねばならない。」
要約的ではあるが、これがユダヤの倫理観である。

キリスト教も基本的にこの「原罪」の考え方を受け継いできた。
私は牧師の息子として、このような話を何度も聞かされ育ってきた。
そしてこのような人間理解が、理屈では分かるのだが、ずーっとニガ手であった。
自分の中の「やましさ」を常に監視されているような気分になったからかも知れない。
また「罪人」と決めつけられる人間の中に、
それでも美しい部分があることを感じてきたからかも知れない。

しかし神学校での学びを進める中で、
旧約聖書の「厳しい神」にも別の側面があることを知るようになった。
楽園追放のアダムとエバには「皮の衣」を与え、
弟殺しへの報復に怯えるカインには「免れのしるし」をつけられる。
厳しさの中にも配慮を備えた神の姿である。

今日の箇所は、カナンで新たな街を築こうとするイスラエルに、
神が「逃れの町」を設けることを命じる場面である。
誤って人を殺してしまった人と言えども、
「目には目を」の同害報復の掟によれば、その報いは受けねばならない。
しかし同時に、その報復を受けることがないように「逃れの町を備えよ」と神が命じられる。

これは罰を回避するための場所であるのと同時に、
やり直して新しく生きようとするチャンスを与える場とも言える。
「人間にはそのような場所が必要だ」。
それがこの箇所からのメッセージである。

社会の中で様々な負い目を背負った人・背負わされた人が、
その社会システムから離れて保護され、再生へと備える場所を「アジール」と言う。
昔の日本では「駆け込み寺」などがその役割を果たしていた。
教会は、現代社会における「アジール」となる場所ではないだろうか。

例えば子どもたち。受験や人間関係のストレスによって
様々な意味で生き辛さを感じ傷ついた子どもたちに、
もう一度自分の価値を見出し、再生への歩みを応援する。
そんな場所がいま、必要とされているのではないか。

「誤って人を殺す」ということではなくとも、
人は社会の中を生きる上でいろんな負い目や傷を背負ってしまう。
そんな人に対して、社会とは少し異なる価値観をもってその人を支え、励まし、
もう一度やり直す歩みを応援する。
教会がそんな「アジール ― 逃れの町」のような場所になれたらと思う。




『 悩める者の友 』  ルカによる福音書5:27-32(4月14日)

かつて家族で車に乗っていて、娘がカーステレオでかけた曲に心を射抜かれたことがあった。

 ♪あぁ、神さまオレは、何様ですか
  どうしていつも、まちがえるのか
  悩みは絶えず、オトナになれず
  眠れぬ夜を 今夜もまた 
  笑ってごまかす、声もむなしく
  飛び出すことも、できないままに
  あぁ!胸が、胸が、暴れだす!暴れだす!
  誰かそばにいて 
           (ウルフルズ『暴れ出す』)

思春期の頃、大人の言うことにいちいち反発し、
しかし自分に自信が持てず、イライラ、モヤモヤしていた日々。
かつて自分も経験した、そんな爆発するような思いが歌われていると感じた。

悩みを持つことは「暗いこと、ダサいこと」だろうか?
そうではない。
どんなに未熟であれ、自分の人生をまじめに考えようとしているからこそ、
悩みもまた生まれるのだと思う。

今日の箇所にも悩める人が登場する。
収税所で働く徴税人・レビという人である。

当時のユダヤ社会で徴税人が置かれていた境遇。
それは決して心躍るものではなかった。
イエスの時代のユダヤは、ローマ帝国の属国として、被支配の状態にあった。
「選民意識」の強いユダヤ人にとってこれは屈辱であり、
異邦人であるローマ帝国の税金を取り立てる徴税人は、
「罪人」の最たるものとして、忌み嫌われていた。

レビの暮らしぶりは結構裕福だったと思われる。
しかし彼は決して幸せではなかった。
何らかの事情でその仕事を続けざるを得なかったが、
人々が自分に向ける冷たい視線を感じながら、
「私はこれでいいのだろうか?」という悩みを持っていたのだと思う。

そんな彼を、イエスはまっすぐ見つめ、
そして「私に従いなさい」と呼びかけられた。
自分を「罪人」としてではなく、「弟子」として、
つまり「仲間」として見てくれる人がいる!
彼は喜び勇んで、すぐさまイエスに従った。
悩んでいたからこそ、イエスの呼びかけが心に沁みたのだと思う。

「罪人」と交わることを非難する人にイエスは言う。
「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人だ。
 私が来たのは罪びとを招くためである」。
イエス・キリストは悩める者の友である。そういうことではないだろうか。

「暴れ出す」思いを歌ったウルフルズは、
もうひとつとても温かな眼差しの曲を歌っている。

 ♪君はどうしてる?ひとりで大丈夫?
  憂鬱なときはいつでも話を聞くよ
  うまくはいかなくても、まずは一歩ずつ。
  答えはひとつじゃないから
  僕は考える。きっと大丈夫。
  心がちょっとザワついて、何かが始まった
  君はどうしてる?ひとりで大丈夫?僕はここにいるよ
  君は大丈夫!きっと大丈夫!僕はここにいるから

               (ウルフルズ『大丈夫』)

私たちには「悩める者の友」イエス・キリストがいる。
そのことを信じて生きていこう。




『 新しい道・古い道 』  ルカによる福音書2:41-52(4月21日)

ビデオテープを買いに電気屋に行ったら、かつて置いてあった場所にはその姿はなく、
全然別のスペースの片隅に、申し訳なさそうにほんの少しだけ売っていた。
かつてはフロアの一角を占めていた商品も、時の移り変わりの中で姿を消してゆく。
ウィンドウズXPもサポートが終了するという。
新しいものの台頭によって古いものが捨て置かれていく現実に、不憫さを感じずにはいられない。

今日の箇所にも古い道と新しい道との相克が語られる。
断食をめぐるイエスとユダヤ人たちの論争である。

断食という宗教的な習慣は、ユダヤ教に限らず様々な宗教に見られる。
自分の欲望を制御することを通して、心身を清め鍛えようとする「苦行」。
禁欲を身に課すことで、自分がワンランクアップするかのように考える発想が読み取れる。

ユダヤ人はイエスや弟子たちを非難した。
みんなが苦行に耐えている時に自由に飲み食いしたからだ。
「どうしてあなたがたはそんなにふしだらなんだ!?」。
イエスは答える。「花ムコがいるときに断食はしないだろう」。
今は喜びの時だ! ― それがイエスのメッセージである。

イエスには確信があったのだろう。
神が喜ばれるのは、人がその与えられたいのちを、心から喜んでいきいきと生きることだ。
なのにどうして人に苦しみを強いるのか?と。

ではイエスは「断食などどうでもよい」と言われたのだろうか?
そうではない。イエスもまた公の活動を始める前には40日40夜断食をされている。
イエスが嫌われたのは、これ見よがしに苦しい顔をして苦行をするその態度である。
「あなたは断食するとき、頭に油をつけ顔を洗いなさい。」(マタイ6:16)

「新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはならない」。
これもその文脈の中で語られた言葉だ。
断食のような古いしきたりで、いきいきと生きようとする人を縛ろうとすると、
両方ダメになってしまうからよろしくない、ということだ。

しかしルカはそこにひと言つけ加える。
「古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。
『古いものの方がよい』と言うのである。」(ルカ5:39)
これもまたワイン好きならば誰もがうなずく一面の真理である。

かつて若い頃の私であれば、気にも留めずに読み飛ばしていたかも知れない。
しかし、いまこの歳になって、この言葉が妙にひっかかる。
自分がビデオテープの淋しげな姿に哀愁を感じる年齢になったからかも知れない。

「何でも新しければいいのか!?」

ルカはそう問うているように思えてならないのである。

イエス・キリストの福音によって、私たちが新しくされることは間違いない。
しかし古いものにもまた、かけがえのない価値があるのではないだろうか。

テレビのCMで、新しい朝の喜びを伝える歌が歌われていた。
しかしその歌は、誰もが知ってる「旧い歌」だった。
それを少し替え歌にして歌ってみた。

  ♪ 新しい朝が来た  希望の朝だ
    喜びに胸を広げ  大空あおげ
    聖書の声に  すこやかな胸を
    この薫る風に開けよ それ1・2・3!

「温故知新(古きをたずねて、新しきを知る)」。
新しい道、古い道、その両者の味わい深い世界を大切にしながら歩みたい。




『 安息日は何のために? 』  ルカによる福音書6:1-5(4月28日)

以前、「東神戸教会のいいところ」について話し合った時に、
「礼拝を休むことへのプレッシャーが少ないこと」という意見が出た。
牧師として「う~む」と唸ってしまった。

常々、「礼拝は喜びをもって集うものでありたい。
義務感で縛ることはしたくない」というようなことを言ってきた。
先のような意見はそれが定着してきた証左であり、
お互いの事情を認め合える関係性はとてもステキだと思う。
ただ、礼拝への動機付け・求心力が弱くなるとすれば、
少々困ったなーという本音があるのも確かだ。

そもそも日曜日はなぜ休みになるかと言えば、礼拝をするためである。
明治時代に一週間の暦が導入されたが、一番肝心な礼拝だけは脇へ置かれた。
その結果、日曜日(安息日)は「遊びの日・レジャーの日」として定着してしまった。

今日の箇所は安息日をめぐる論争を記したものである。
安息日に道を歩いていたイエスの弟子が、麦の穂を摘んで口に入れた。
ファリサイ派はこれを咎める。「収穫」という労働にあたるというわけだ。
このような「些細な」ことを取り上げてクレームをつけるところに、
当時の律法主義者の体質が浮かび上がる。

これに対するイエスの答えは、少々情けないものだ。
「ダビデだって、タブーを犯しているではないか」。
これではまるで「○○ちゃんもやってるもん...」という幼児の言い訳と変わりがない。
それに続けて「人の子は安息日の主である」と、今度は権威主義的に居直っているようである。

ルカはマルコに記された需要な言葉を省いている。
「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。
これは律法と人間との関わりを述べた的確な言葉である。
しかしその言葉は当時のルカには「過激」なものと響いたのかも知れない。

安息日は何のためにあるのか?礼拝は何のためにするのか?
週に一度なりわいから離れ、自分を見つめ祈りと賛美をささげ、祝福を受ける。
そうすることによって生き生きとした息吹に満たされリフレッシュする。
それは大切な礼拝の営みだ。そんな礼拝を毎週ささげられたらどんなにうれしいことか。

しかしここで忘れてはならないもうひとつのことを思う。
私たちが礼拝をささげる意味、
それは「自分がこの世界の主人公ではないことを知るため」ではないかと思うのだ。
私たちのニーズを神さまが満たしてくれることを求めるのではなく、
神さまのニーズに応える自分の歩みを見出すこと、
それが礼拝という営みの、最も大切な意味なのではないだろうか。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
 むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、
 何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、
 また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
   
            (ローマの信徒への手紙12:1-2)




『 恥と、後悔と、赦しの記録 』      民数記14:17-21(5月5日)

およそ2年間にわたる民数記の学び、今回が最終回である。
エジプトの奴隷状態から解放され、約束の地・カナンに移り住むにあたって、
民の数を調査し、移住地での土地配分を検討する。
そんな内容が民数記の約半分である。

残り半分は、エジプトからカナンまでの旅の記録。
直線距離で約300km、歩いて十日ほどの道のりを、
イスラエルの民は40年にわたってさすらうことになる。
その理由は、解放の恵みを与えられたにも関わらず、
神に背き続ける民の不信仰・罪の故であった。

自分たちの属する共同体の歴史をまとめる時、
よい出来事は抵抗なく記すことができるが、
悪い出来事、いわゆる「負の歴史」に関しては
記録にとどめることを躊躇することがある。
教会史の編纂などにおいても頭を悩ませる場面である。

しかしユダヤ人はそのような歴史の「恥部」を、隠すことなく記録にとどめ、
しかもそれを「聖典」として礼拝ごとに読み続けてきた。
神の前に隠し通せるものは何もないこと、
そして「人間は過ちを犯す存在である」ことを知っていたからであろう。

民数記の記録は、正直言って読んでいて清々しいものではなかった。
「人を本当に動かすのは感動だ」が持論の私にとっては、
とてもやりにくい聖書の箇所であった。
自分の「やましさ」をえぐられるような内容がいくつも記されているからだ。

しかし「読みたくない」からといって、脇へ転がしておけばよいのか?
決してそうではない。
自らの恥や後悔から目を背ける生き方においては、
決して知り得ないものがあるからだ。
それは「赦し」である。

「あなたの言葉ゆえに、私は赦そう。」(民数記14:20)

これは、度重なる民の過ちを「何とか赦してください」と懇願するモーセに対して、
神の語られた言葉である。民数記で最も大切な言葉だと受けとめたい。

「人を本当に動かすのは感動」― それは一面の真理である。
しかしそれに加えて、人を本当に支えやり直しの道を歩ませる力、
それは「赦された体験」なのではないだろうか。

民数記の記録、それはイスラエルにとってのみならず、
人間全般にあてはまる「恥と、後悔と、赦しの記録」である。




『 掟に縛られない生き方 』    ルカによる福音書6:6-11(5月12日)

私たちは何らかのルールや掟に従って生活をしている。
個々人が勝手気ままに振る舞ったのでは社会の秩序が保てない。
共同生活を安定的に確保する役割が、それらの決まりごとには託されている。

しかし、そのようにして定められたルールが、逆に人間を押さえつけるものとして機能し、
人々の暮らしから瑞々しさを奪うということが起こってくる。
そうすると反発や逸脱が生まれ、やがてルールそのものの改定が行なわれる。
ルールや掟と、人間の社会生活との間には、常にそのような往復運動が繰り返される。

一連の安息日論争を続けて読んできたが、
安息日の掟もまた、イエスの時代には人々を押さえつけるものとなっていた。
もともと働き人や家畜が休息を得るために設けられた安息日。
その日に礼拝をささげ、精神もリフレッシュするための日が、
次第に「違反者は死刑」といった恐ろしい掟に変貌した。

イエスはそんな中、安息日の掟に縛られず、自由に振る舞った。
その姿は、律法主義者の牛耳る社会に息苦しさを感じていた人々にとって、
衝撃的なものと映っただろう。

今日の箇所はイエスが安息日に「片手の不自由な人」を癒された出来事である。
治療行為は安息日に禁止されていた労働行為のひとつ。
その「癒し」を、イエスは安息日の掟に違反して行なわれたのだ。

その状況を少し想像してみよう。
この「手の不自由な人」は、それでも安息日に自力で会堂までやってきた。
つまり、緊急の手当てを要する急病人や怪我人ではない。
「癒し」の行為を翌日まで待っても、特段の差し支えはなかっただろう。
「命を救うことか、殺すことか」というイエスの言葉は、いささか大袈裟である。

しかしイエスは、問題になることを承知で、反発覚悟で、
安息日に「敢えて」その人を癒された。
それは律法学者たちに対する問題提起・宣戦布告であった。
案の定、「彼らは怒り狂ってイエスを何とかしようと話し合った」(11節)。
その行く先に最終的に待ち受けているのが、十字架の苦しみである。

このイエスのパフォーマンスは、掟を守らせる側へのものであるのと同時に、
掟を(しぶしぶではあっても)守っていた人々への問いかけでもある。
心の中で「これは何かおかしい...」と思いながらも、
声を上げることによって自分に不利益が及ぶのを恐れて黙って従っている...。
そんな人々に向かってもイエスは問うておられるのだ。
「それでいいのか」と。

ある意味で掟で人を縛ろうとする人と、縛られる人とは、一種の共犯関係にある。
これは古代の聖書の時代の話だけではない。
私たちの身の回りにも、同じようなことは起こり得る。

何でも判断を人任せにし、不利益を恐れて思考停止に陥ってしまう時、
私たちは自ら掟に縛られる生き方を選び取っている。
イエスはそんな世界に風穴を開けるために来られた方なのだ。




『 風の通り道 』  ルカによる福音書6:20-26(5月19日)

ペンテコステは風の起こした奇跡物語である。
その日風が激しく吹いて、弟子たちが動かされ強められ教会の宣教が始まった。
昔の人は目に見えない風の中に、見えない神の導きを感じていた。
弱虫だった人間に、勇気を与え押し出してゆく。
それがペンテコステに降った「聖霊の導き」である。

ところで、風の吹くメカニズムとはどんなものなのだろう?
科学(気象学)の説明によると、
それは「高気圧から低気圧に向かって動く空気の流れ」である。
夏は陸地の温度が上がり温まった空気が上昇して低気圧ができる。
するとそこに海上の冷たい空気が流れてくる(浜風)。
逆に冬は陸地の気温が上がらず海の方が温度が高いため、
逆の空気の流れができる(六甲おろし)。

太陽熱によって地表に空気の多いところと少ないところが生まれ、格差が生じる。
するとその格差を埋めようとする空気の流れが生まれる。それが風である。

風は高いところから低いところに向けて吹いてくる。格差をならそうと吹いてくる。
そしてその風は決してひとつのところにとどまっていることはない。
これは何か象徴的なことを表わしているように思う。

今日の箇所は「幸いである」で有名なイエスの言葉である。
マタイと違ってルカ版の「幸いである」には、後半「不幸である」という展開も語られる。
ここで言われているのはこの世の価値観をひっくり返す「大どんでん返し」の宣言である。
「貧しい者が貧しいまま、飢えている者、悲しむ者が苦しむまま...
そんな世の中であってよいはずがない。それはきっとひっくり返るのだ」...
それがイエスのメッセージである。

このメッセージを「格差は是正されねばならない」と受けとめ、
それを武力と権力を用いて実現しようとしたのが共産主義革命であった。
その理念は貴いものがあったが、多くの局面では失敗に終わった。
革命を担う人間自身が崇高な人ばかりではなかったからだ。

イエスはそれを武力・権力を用いることによってではなく、
人間の心の奥底に宿っている愛の力を呼び覚ますことによってなしとげようとされた。
そしてもうひとつ「神はこのような格差のある世界を決してよしとはされない」
そんな信仰がイエスを支えた。

神さまの恵みは、この世の最も低くされた人のところに真っ先に与えられる。
それはちょうど風が高いところから低いところに吹いてくるように。

ペンテコステの不思議な風が吹いてきたのは、弟子たちが「どん底」状態の時だった。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」(ルカ18:9)のところには、
風は吹いてこない。吹いたとしてもそれを感じられない。

風を感じるにはどうしたらいいのか?
それは自分を空しくすることである。
自分の弱さ・小ささを知り、あやまちを認めること。
するとその低くされた心に不思議な風が吹いてくるのを感じることだろう。

                         (ペンテコステ礼拝)



『 それでも祝福を送る 』      ルカによる福音書6:27-36(5月26日)

昨年12月、ヴィッセル神戸の最終戦(ホームゲーム)を観戦した。
残念ながらヴィッセルは敗れ、J2陥落が決まってしまったが、
試合後のセレモニーでのヴィッセルの監督の挨拶が印象的であった。
前節優勝を決めていた対戦相手のサンフレッチェに祝福を送ったのである。
失意と絶望の中にありながら、相手チームへの感謝と祝福を忘れない姿に感動を覚えた。

今日の箇所はよく知られたイエスの「愛敵」の教えである。
この教えを伝えるマタイとルカでは、文脈が少々違っている。
ルカの文脈では、直前の「幸いである・不幸である」という言葉に続くものとして
この「愛敵の教え」が語られている。

直前に言われていたことは、ひと言で言えば
「この世の価値観がひっくり返される」ということだ。
貧しい者・泣く者・飢える者が幸せになり、
富む者・笑う者・満腹する者が不幸を味わう。
そんな神の国の革命が起きるという宣言。
この言葉を聞いて、これまで辛酸をなめさせられていた人は、
胸がスカーッとする感覚を抱いたことだろう。

「しかし!その私の言葉を聞くあなた方に言う!」。
そのようにしてイエスは「愛敵の教え」を語られるのである。
この世の価値観の逆転が起こったら「ざまぁみろ!」と有頂天になりかねない人間。
そんな人々に対してイエスは、
「たとえ対立する人であっても、それでも祝福を送りなさい」と教えるのである。

「あなたの対立する人、ニガ手に思う人にも、神は恵みを与えておられる。
 恵みの雨は善人にだけ降るのではなく、悪人のためにも降る。
 神は人を分け隔てなさらない。だからあなたがたも敵を愛しなさい」。

これはなかなか実践が難しいことである。
どうすればそのような心持になれるのだろうか?
カギになるのは想像力(イマジネーション)であろう。
対立する相手にもそれなりの事情があるのかも知れない。
自分が相手と同じ立場なら、同じことをしかねない。
自分自身が絶対正しいのではないのかも知れない...。
そんな「もうひとつの眼差し」を持ってみることだ。

対立する相手に「それでも祝福を送れる歩み」は、
「呪いしか語れない歩み」よりもずっと豊かである。そう信じよう。




『 繰り返し命じる掟 』     申命記6:4-9(6月2日)

どんな人にも幼い時から家族や学校において
繰り返し聞かされてきた教えや掟といったものがある。
「もうわかったよ!」と反発を覚えるくらい諭されながら、
いつの間にかそれが自分の骨肉になっているような教え。
共同体はそのようにして大切な価値観を代々継承してきたのだろう。

民数記の学びを終え、今日から申命記に入った。
物語の流れとしては、エジプトを脱出して40年間荒野をさすらった後、
ようやく「約束の地」カナンに向かって歩みを進めようとするイスラエルの姿が描かれる。
ところがカナン移住を直前にして、
モーセは再び神と人との契約である「律法」の教えを語り始めた...。
それが申命記の位置づけである。
「申命記」とは「申=ふたたび」「命じる」記という意味を持つ書物なのである。

「この期に及んでなぜ再び...」と思う。
しかし40年の旅路の末に、律法の教えを十分理解した人も少なくなった。
そんな状況で新たな共同体を作るにあたって、
大切にすべきことを「再び命じる」必要があったのだろう。

申命記の大半は律法の教えの羅列であり、
出エジプト記の後半とレビ記に記された律法の内容と重なる部分が多い。
なので私たちはその重なる部分は適当にパスしながら進めていきたい。
(実際には出エジプト記やレビ記よりも、
申命記の方が取り上げやすい内容の条文が多いと思うのだが...)

今日は「申命記」という書物自体が持つ意味を考えたい。
「申命記」すなわち「繰り返し命じる掟」。
そういうものが人間には必要なのだ、ということではないだろうか。

私たちは誰かから大切な掟を与えられる。
それを理解し納得して受けとめて守ろうとする。
そのようにして掟や律法というものは効力を持つと言える。
しかし、一度理解した・納得したからと言って、
その掟の内容をそのまま生きられるかというと、それはまた別の話である。
繰り返し過ちを犯し間違ってしまう私たちには、繰り返し命じる掟や律法が必要なのだ。

ではその律法で一番大切なものは何か?
イエスはそれを教えてくれる。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛しなさい。
 自分を愛するように隣人を愛しなさい。」(マルコ12:29‐31)
前半は申命記6章、後半はレビ記19章に記された律法の言葉である。

イエスはこの二つの条文に律法全体の意味を凝縮し、教えられた。
これが私たちに欠かせない「繰り返し命じる掟」である。




『 I’m OK, You’re OK! 』   ルカによる福音書6:37-42(6月9日)

人間の対人関係を分析する「交流分析」という方法がある。
この方法によると、人間の他者への振る舞いは次の4つに分類される。
① I’m OK, You’re OK.
② I’m OK, You’re not OK.
③ I’m not OK, You’re OK.
④ I’m not OK, You’re not OK.

この4つのうち、こじれる人間関係の元になる「ラケット」という不快感情は、
①を除くすべてのパターンから生じるという。
心の整理や努力をして①の I’m OK, You’re OK. の関わりを求めることが、
人間関係を友好的に保つ秘訣である。

今日の箇所は「人を裁くな」と命じられるイエスの教えである。
先の交流分析のパターンで言えば、②の「 I’m OK, You’re not OK. 」
そんな態度の人に向けて語られた教えと言えよう。
そういう生き方がいかに自己中心的で高慢なものであるかは誰もが容易に想像できる。
にもかかわらず、気を付けないと
自分自身がそういう態度になってしまうことの何と多いことか。

しかしそのような態度を離れることを命じるにあたって、
イエスの教えはすぐさま「① I’m OK, You’re OK. 」には向かわない。
むしろイエスは「他者への裁きはすぐさま自分に返ってくる」と教え、
他人の目にある丸太は見えるのに、自分の目にあるおが屑は見えない
愚かな人の譬えを語られるのである。
つまり他人の過ちを指摘する前に、自分の過ちを認めよ、ということである。

すると、ここでイエスが言われていることは「④ I’m not OK, You’re not OK. 」なのだろうか?
そうではないと思う。もう少し掘り下げて考えてみよう。

気を付けないと陥ってしまう「② I’m OK, You’re not OK.」の関係。
しかしそれは自分に絶大な自身があってそうなるのではなくて、
むしろ本当は自分に自信が持てないにもかかわらず、
他者を否定・非難することで「 I’m OK 」をかろうじて保っている状態なのではないか。

本当に自分に自信が持てる人というのは、何でも完璧に出来る人ではなく、
自分の弱さや欠点を知っていて、そんな自分をそれでも受け入れられる人なのだろうと思う。
もちろんそれは自分の弱さをだらしなく肯定し居直る態度のことではなく、
欠点を乗り越えようとはするけれどもそれでも越えられな自分の「イケてない」姿を、
それをもかけがえのない個性として認め受け入れる、そんな大らかな態度のことである。
そんな大らかさを持った人こそが、向き合う相手の人格を長所も短所もひっくるめて
「 You’re OK..」と語れる人なのだろう。

イエスの教えは、一回半ひねった「 I’m OK, You’re OK! 」なのではないだろうか。
即ちそれは非の打ちどころのない完璧な者同士が認め合うという関係ではなく、
神の前に偽ることのできない罪や弱さを抱えつつ、それを赦された者、
その赦された喜びを知る者同士が、自他ともに認めあう
「 I’m OK, You’re OK! 」のことなのではないだろうか。

さて今日は英語を使い過ぎた。
以上のような人間同士の関係を表わす、なかなかすてきな関西弁がある。
その言葉で今日のメッセージをシメたいと思う。

  「人間、みんなボチボチや。」




『 必要なものは満たされる 』    出エジプト記16:13-16(6月16日)

イエスさまが生まれる千年以上も前のお話です。
イスラエルの人たちは、エジプトという国で奴隷として働かされていました。
苦しみの中、人々が神さまに「助けてください」と叫ぶと、
神さまはモーセというリーダーをつかわしてイスラエルの人たちを救い出そうとされました。
この後モーセさんが人々を自由にするまでに、たくさん苦労することになりますが、
今日はそのお話は省略します。

今日はエジプトを脱出して、神さまが約束された「カナン」と呼ばれる地に向かって
旅をしている時のことをお話します。
土と石と岩しかない荒野を、イスラエルの人たちは何日も何日も歩いて旅をしました。
最初はエジプトから持ってきた食べ物や水があったのですが、
次第にそれも底をついてきてしまいました。

人々はモーセに言いました。
「お腹が空いて倒れそうです。
 こんなことならエジプトにいた方がよかったかも知れません。」
モーセは神さまに祈りました。すると神さまが言われました。
「心配することはない。明日の朝起きてごらん。
 テントの外に不思議な食べ物が積もっているから」。

翌朝起きてみると、神さまの言葉通り、
白い不思議な食べ物・マナが地表を覆っていました。
人々はそのマナを食べて旅を続けることができました。
どんなに困った時も神さまはきっと助けて下さる。必要なものを満たして下さる。
そんなことをこのマナのお話は教えてくれます。

でもお話はそこで終わりません。
マナは必要な分が与えられました。
中には次の朝、楽をしようと思って余分に集めた人がいました。
するとそのマナは夜の間に腐って食べられなくなりました。
欲張っちゃダメ!ということですね。

ひとつ困ったことがありました。
7日に一度の安息日は、マナを集める「お仕事」ができません。
「どうしよう...」
すると安息日の前の日だけは二日分取ることが許されたそうです。

神さまは今もこの地球という星に、
私たちにとって必要なものを満たす力を与えて下さっています。
でも人間が欲張った心を持ってしまう時、
みんなに必要な分が行き渡らなくなってしまうのです。

一方ではたくさんの食べ物に囲まれて、食べきれずに捨ててしまう人がいます。
一方では今日一日のパンも食べることができずに、飢えて死んでしまう人がいます。
みんなが必要な分だけで満足し、感謝をすることができたら、
もっともっと「分かち合い」ができるはずなのです。

必要な分を満たして下さる神さまの恵み。
その恵みに感謝しながら、欲張りの心を離れて、
分かち合える心を大切にしましょう。
                     (CS合同ファミリー礼拝)



『 良い実を結ぶ悪い木 』  ルカによる福音書6:43-49(6月23日)

いつの頃からか、映画やドラマなどに登場する人物の中で、
ある特異なキャラクターに心惹かれるようになった。
外見は一見薄気味悪そう・恐そうなのだが、
内面には優しさや純粋な心を抱いたキャラクターだ。
非の打ちどころのない優等生ではなく、ちょいワルのイカしたヤツ、
「放蕩息子」の譬えで言えばおりこうな兄ではなく、断然ハチャメチャな弟だ。

イエスは決して外見や職業や表面的なふるまいでその人を判断せず、
その人の心のありようを見ておられた。
それは人を「律法に従ってるか否か」といった表面的な部分で評価していた
ファリサイ派の人たちとは対照的だった。
「あぁ何とイエスは『人間』というものを分かっておられるのだろう...」
そのような感動を覚えることがよくある。

そんな感動を抱いて今日の箇所を読むとき、いささか違和感を禁じ得ない。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」
「茨にいちじくはならないし、野ばらからぶどうの実は採れない」そうイエスは言われる。

確かに茨にいちじくはならず、野ばらにぶどうは実らない。
しかしイエスという人はいちじくが採れないからと言って「茨は悪い木だ」とか、
人を表面だけで「良い木・悪い木」とは決めつけない人だったのではなかったのか...
そのように思ってしまうのである。

しかしそんな思いも、続く46節以下のたとえ話を読むときに、
また違った受けとめ方へと導かれる。
聖書に記された神の言葉を「聞いても行なわない人」と
「聞いて行なう人」についてのたとえ話である。
イエスはそれを、土台の上に建てた家と、土台なしに建てた家に例えておられる。

ファリサイ派の人々は、神の言葉を完璧に理解した。
しかし大切なことは、何を聞いたか・理解したか、ということではなく、
その聞いたことをどれだけ実行に移したかなのだ ― イエスはそう言われるのだ。

その視点から「良い実を結ぶ」とはどういうことか?を考えてみたい。
それは御言葉を立派に理解することではなく、解説できることでもない。
たどたどしくてもそれを生きようとすることではないだろうか。
裏返せば、自分で自分を「良い木だ」と思っている人が
必ずしも良い実を結ぶわけではない、ということだ。

御言葉を聞くだけでなく、不完全だとしてもそれを行なう者になりたい...
そんな小さな願いを抱いて生きる時、
表面上は「悪い木」にしか見えない人の枝にも、「良い実」が実るのだ。




『 ただ言葉をください 』  ルカによる福音書7:1-10(6月30日)

先週の箇所で、イエスは、御言葉を聞くだけで行なわないものを
「土台をすえないで建てたので、洪水に流される家」に譬えられた。
そう言われても、私たちはなかなか御言葉通りに生きることができない存在である。
でも、だからこそ毎週礼拝に集い、繰り返し御言葉を聞くことが必要なのだろう。

今日の箇所には、その「言葉を聞く」という営みを、
本当に心から大切に求めた人の姿が描かれている。
その人物とはローマの百人隊長である。
軍隊という組織は、規律によって厳格に訓練された集団である。
その軍隊を命令一下自在に操る立場にあるのが百人隊長である。

非情な上官の下に置かれた兵士は気の毒な存在だ。
戦場ではまるで消耗品や歯車のように扱われかねない。
しかし今日の箇所の隊長はそのような人物ではなかったことが分かる。
病気になった部下のことを慮る心を持った、思いやりのある上官である。

その彼の下にイエスの活動についての噂が届いた。
病人を癒し、身体の不自由な人を立ち上がらせている...。
「その人にぜひうちに来てもらいたい。この部下を癒してもらいたい」彼はそう願い出た。

イエスはその言葉を受けて彼の家に向かわれた。
すると家の近くまで来たとき、隊長は使いをやってこう言わせた。
「わざわざご足労いただくには及びません。
 私はあなたに家に来ていただく値打もないものです。」
謙遜な思いでそう言った後、彼はさらに続ける。
「ただお言葉をください。そして僕を癒してください」。

「ひと言癒しを命じる言葉があれば十分です」そう彼は言う。
彼自身もまた言葉(命令)の権威を用いて働いていた。だからそのように言えたのであろう。
するとイエスは「これほどの信仰はイスラエルでも見たことがない」と言われた。

イエスは隊長の何に対してそれほどまでに感心されたのか。
言葉の権威を理解し利用するその作法に対してか?
それともイエスの権威にひれ伏す従順な姿勢に対してか?
そうではないと思う。
イエスが感心されたのは「権威云々...」といったことではなくて、
「ただ言葉をください」と願う彼の「聞く姿」に対してではないだろうか。

これまで見てきたように「イエスの言葉や振舞いの権威に人々は驚いた」と記されている。
しかしそれはイエスの言葉の語り方や振舞いにだけ根拠があったのではなく、
それを受けとめる人々の「聞く力」によるものも大きかったのではないか。

「ただお言葉をください」そう願う百人隊長の姿は、
まさにその「聞く力」を信じ、それに全てを委ねようとするものである。
そこにイエスは深い信仰を見られたのである。

かつてイエスは「聞くだけで行ないの伴わない信仰は、土台のない家だ」と言われた。
しかしそれにもかかわらず、私たちの信仰はやはり聞くことから始まらざるを得ない。
異邦人である百人隊長の「ただお言葉をください」という信仰の姿に学びたい。

「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上3:9)
「実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(ローマ10:17)




『 主の約束を見る 』      申命記3:23-29(7月7日)

ある事柄に大きな功績を残しながら、その完成を見ることなく生涯を終える人がいる。
渾身の思いで取り組んだにもかかわらず、途中でその場を離れざるを得ない...、
そんな時、心血を注いだその思いはまったくの徒労に終わってしまうのだろうか。

今日の箇所のモーセはまさにそんな状況に置かれた存在である。
エジプトで奴隷の状態であったイスラエルを解放し、
「約束の地」への40年にわたる旅を指揮し、
度々訪れるピンチの時も道を開き続けたモーセ。
そして一行はいよいよその神の約束の地・カナンへと移り住んでゆく。

ところがその約束の地に、モーセは一緒に入ることを許されなかった。
その理由は、荒野を40年さすらう原因となったイスラエルの人々の不信仰を、
リーダーであるモーセがうまくコントロールできなかったから、というのである。
「何と理不尽な!」と私たちは思う。

モーセにも同じ思いがあったのかも知れない。
今日の箇所で彼は「私も一緒にその土地に行かせて下さい」と一度は神に懇願している。
しかしそれに対する神の応答は
「もうよい。そのことを2度と口にしてはならない」というものであった。

「何と冷たい!」と思うだろうか?
しかしひょっとしたら神さまも辛かったのではないか。
「モーセよ、気持ちは分かる。しかしお前一人を許すわけにはいかんのだ。
 もうそれ以上言わないでくれ...」そんなニュアンスを受けとめたい。

続けて神は「山に登って約束の地を見なさい」と言われる。
これもご無体な言葉だ。「見るだけですか!?」そんな思いを抱いても仕方ない。
しかしモーセの受けとめ方は違った。
山に登り約束の地を見た後、彼は人々に律法の教えを再び(申)命じるのである(申命記)。
それは「新しい土地でこれを大事に生きてゆけ」と伝える、モーセの遺言である。

その時のモーセの心中はいかなるものだっただろう。
無念さが消えたわけではない。けれども我が人生は無駄であったとは思わない。
なぜなら私は主の約束を見、我が民がそれを受け継ぐのだから...
そんな静かな充足の思いが彼を満たしていたのではないだろうか。

このモーセの姿を、キング牧師は自分に重ねて、あるメッセージを残している。
大きな盛り上がりを見せた公民権運動も次第に行き詰まり、
キング自身にも暗殺の予告が舞い込んでいた時期に行なわれた集会でのことである。
「私はみんなと一緒に約束の地(公民権運動の完成の日)へ行けないかも知れない。
 しかし私はそれで構わない。
 何故なら私は山の頂に登り、みんなと一緒に約束の地を見たのだから!」
そう語った翌日、彼はホテルのバルコニーにいたところを狙撃され、暗殺された。

「神の救いを自分が手にすることができなくても、その救いを見るだけで、
 そして仲間がその救いにあずかると信じるだけで、それで十分だ」
そのような信仰のかたちがあることを、モーセもキングも教えてくれる。

私たちも主の約束を、自分の思い通りのかたちで体験することはないかも知れない。
「しかしそれにもかかわらず主の約束は必ず成し遂げられる。
 私はそれを得られないかも知れないが、それを希望をもって眺めるだけで十分である。」
そんな信仰を求めて歩みたい。
 




『 小さな悲しみに向き合うことこそ 』     ルカによる福音書7:11-23(7月21日)

人は自分の生きる社会のありように問題を感じる時、その社会の変革を求めるようになる。
古来より宗教的な枠組みの中でそのような変革を求める営みが繰り返し行なわれてきた。
「いまはこんなにひどい現実がある。しかし神はこの現実を見過ごしにはされない。
 きっとこの世界を作り変え、人々に救いを与えられるに違いない」。
そのような信仰が繰り返し現れ、祈りがささげられてきた。

キリスト教の中にもそのような伝統が色濃くある。
その典型的な形が、終末思想・最後の審判と、
その後に訪れると言われる「神の国」の待望論である。
「天から燃える炎が降り、悪しきものが焼き払われ、信じる者は救われて永遠の命に入る。」
そんな世界観が、多くの預言者たちによって語られてきた。

バプテスマのヨハネもまた、そのような言葉によって語り行動した人であった。
ユダヤの王ヘロデが相手でも臆することなく裁きを語り、
それ故に獄に投じられてしまった人物だ。
そんなヨハネはイエスに期待していた。
「この人こそ、最後の審判の時に来られる、救い主・メシヤだ」と。

しかし獄中のヨハネに伝えられるイエスの噂は、彼の期待とは少し異なるものだった。
裁きの訪れを感じるような天変地異は起こらず、
イエスはもっぱら病人や貧しい人を慰め癒す活動に集中している。

ヨハネは弟子をイエスのもとにつかわして尋ねさせた。
「来るべき方=メシヤはあなたでしょうか。それとも他の人を待つべきでしょうか。」
イエスはストレートに答えず、病人を癒し貧しい人を慰めるご自身の活動を
ヨハネに伝えよと応じられた。そのようにして小さな悲しみに向き合い寄り添うこと、
「それこそが神の国=神の救いだ」ということではないか。

かつての血気盛んに活動していたヨハネであれば、
このイエスの答えには納得いかなかったかも知れない。
しかし今、その言葉は彼にとって慰めとなったのではないかと思う。
なぜならヨハネもまた、今は獄中という「悲しみ」の中に置かれていたのだから。

私たちには大きな変革を生み出す力はない。
しかし小さな悲しみと向き合うことはできる。
そこに「神の国」があると信じたい。




『「消費者マインド」からの脱却 』    ルカによる福音書7:24-35(7月28日)

かつてマルクスは『共産党宣言』の冒頭にこう記した。
「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が。」
その言葉をもじって、こんな言葉を考えてみた。
「一匹の妖怪が今日本を徘徊している。『消費者マインド』という妖怪が。」

「消費者」とは資本主義社会における「顧客」のことである。
経済活動においてモノを買ってくれる購買者の存在は不可欠だ。
「お客様は神様です」という言葉がまことしやかに語られる。
こうして、「私たちがモノを買ってあげるからあんたたちは暮らせるんだよ」
そんな意識が形作られてゆく。「消費者マインド」の誕生である。


商売になれあいを生じさせず、緊張感を保って行なうために、
このような心理があることは一方では大切なのかも知れない。
しかし膨れ上がる消費者マインドは大きな問題を起こすことにもなる。
ちょっとしたことでクレームや訴訟を繰り返す、まさに妖怪(モンスター)。
医療や教育の現場で、そのようなモンスターによるトラブルが頻発している。

ところでこの消費者マインド、近代資本主義社会だけの問題ではなかったようだ。
今日の聖書に登場する人々もまた似たような存在である。
バプテスマのヨハネの宣教に対しては「頭が変だ」と言い、
イエスの自由な振る舞いには「罪人の仲間だ」と言う。
そのような姿をイエスによって批判された人々である。
「彼らはまるで『笛を吹いたのに泣いてくれなかった。
 歌を歌ったのに踊ってくれなかった。』そんな駄々をこねる子どもみたいである」と。

新しい事柄に心を開かず、自分の中に初めからある結論だけを求める姿。
それはまさに旧約聖書で批判される「自分の腹を神にしている姿」である。

私たちの心の内にも「消費者マインド」は宿っている。問題点は何か。
ひとつは、感謝の心を忘れていること。
人からしてもらうことの全てを「あたりまえ」と受けとめるありようだ。
そしてもう一つは「共に生きる・共に作り出す」という姿勢の欠如。
そのような生き方は周囲の人を不快にするのみならず、
その人自身からも生きる豊かさを削ぎ落してしまうのではないか。

かつてJ.F.ケネディは、大統領就任演説でこう述べた。
「わが同胞のアメリカの人たちよ。
 あなたの国があなたのために何をしてくれるかを問うのではなく、
 あなたがあなたの国のために何ができるかを問おうではないか。」

消費者マインドから脱却して、共に世界を作るひとりとなる。
そんな働き人を、神さまは「神の国建設」のために求めておられる。




『「野蛮」と「文明」 』   ローマの信徒への手紙12:9-21(8月4日 平和主日礼拝)

韓国で行なわれた日韓サッカーの試合で、韓国サポーターによって
「歴史を忘れる民族に未来はない」という横断幕が掲げられ、問題となった。
確かにスポーツと政治との分離を定めたFIFAの規定には違反するのかも知れない。
しかし言われていることの内容は本当にその通りだと思う。
「歴史を忘れる民族に未来はない」。
閣僚の「ナチス発言」などを聞く限り、その思いを新たにする。

もちろん歴史認識とは、「ひとつの正解」があるわけではない。
「正しい歴史認識」と「間違った歴史認識」の二種類識しかない、というものでもない。
同じ出来事を見るにしても、立場が違えばとらえ方も違う。
明治維新も薩長と会津では見方がまるで違う。
広島長崎の原爆も、日本人と、アメリカ人と、アジアの民衆では異なる視点でとらえられる。

問題は、自分の歴史認識だけが正しいとして、違う見方をする人を切って捨てることだ。
今日の平和主日では「異なる見解を持つ他者との向き合い方」について考えたい。
利害を異にする他者、利害が対立する他者のことを、私たちはしばしば「敵」と呼ぶ。
そんな敵対する人と、どう向き合えばよいのだろうか。

スペインのオルテガという哲学者は、1930年に著した『大衆の反逆』の中でこう述べた。

「文明はなによりもまず、共同生活への意志である。
 他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。
 野蛮とは、分解への傾向である。(中略)
 自由主義は、最高に寛大な制度である。
 なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利であり、
 地球上でもっとも高貴な叫びである。
 それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。
 敵と共に生きる!反対者と共に統治する!」(オルテガ・イ・ガセー『大衆の反逆』)

違いをもって対立するのではなく、「弱い敵」とすら共存する意思のことを、
オルテガは「文明」と呼んだ。

ところがオルテガより遡ること20年、岡倉天心は『茶の本』の中でこう述べた。

「西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。
 ところが日本が満洲の戦場に大虐殺を行い始めてからは文明国と呼んでいる。(中略)
 もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、
 我々はあくまでも野蛮人に甘んじよう。」(岡倉天心『茶の本』)

二人の発言は言葉の意味の上では正反対を向いている。
しかし語ろうとしている本質は同じ方向を目指すものであると思う。

今日の聖書の箇所でパウロは「愛をもって共に生きる者となりなさい」と語る。
しかしその共に生きる相手は、気心知れた共感し合える仲間のことだけではない。
「迫害するもにも祝福を送れ、呪ってはならない」とパウロは語る。
それはイエスの「あなたの敵を愛しなさい」という教えそのものである。
それはオルテガの目指した「文明」であり、岡倉の志した「野蛮」である。

現代の日本では、対立点を露わにし、「敵をやっつけろ!」という言説がもてはやされる。
そのような発言の方が勇ましく、分かりやすく、頼もしげに思えるのかも知れない。
一方オルテガの目指した「文明」、岡倉の志した「野蛮」は、まどろっこしい道のりである。
気持ちよくスカーッとすることはなく、むしろ不快な思いになることが多いかも知れない。

しかし本当の平和とは、そのようなまどろっこしい道を通じて実現するものなのではないか。
そんなことを、今日の聖書の言葉は考えさせてくれる。




『 神の物語の中で、今日も生きる 』  申命記4:1-14(9月1日)

8月28日、キング牧師の“I have a dream!”50周年の記念集会を行ない、
改めてそのスピーチの映像を見た。
その力強いメッセージは今なお多くの感動を与えてくれる。
キングの肉体の生命は終わったが、キングの「いのち」は今も生きていて、
多くの人々を導き続けてくれる。

申命記は、エジプトを脱出し約束の地・カナンに移り住むのを前にして、
モーセが律法を民に「再び(申)命じる」記録である。
それは既にレビ記や民数記に記されたことだが、新たな歩みを始めるにあたって
改めて大事なことを命じるモーセの姿がそこにある。

今日の箇所でモーセが語っていることは、ひと言で言えば
「十戒を守り、律法に従って歩みなさい」ということである。
人はみな心の中に様々な欲望を抱いて生きている。
その欲望のおもむくままに生きるのでは、結局人間は豊かになれない。
それが旧約聖書の基本的な考えである。

十戒や律法の条文に記されたことは、
欲望を抱いた人間には窮屈に思えるかも知れない。
しかしその「外側からの規範」に従って歩むことの方が、
むき出しの欲望のままに生きるよりも、
結果的に豊かな共同体を築くことができる。
「律法」には、人々のそんな知恵と経験と、そして信仰が集約されている。

旧約には、「聖書の神・ヤハウェ」に従って歩まず、
「バアル」と呼ばれる土着の神を拝んでしまう人々の姿がしばしば記される。
バアルとは豊穣をもたらす山の神、風や嵐を司る神で、
この神を拝んでおけば五穀豊穣が与えられると信じられた。
世界のどこにでもある信心のあり方だが、
旧約はこれを「人の欲望に仕える神を求める」そんな姿ととらえ、
偶像崇拝として退けてきた。
神と人との「不可逆性」を大事にしてきたのだ。

人間の欲望をかなえてくれる神を求めるのではなく、
神のみこころに従う歩みを求めること。
それがまことの信仰だとモーセは教える。

しかしその言葉を伝えるモーセは、民と一緒にカナンには進めない。
モーセが人々と共にカナンに入ることを、神はお許しにならなかったからである。
(7月7日のメッセージ参照)
けれども、たとえモーセがいなくてもその言葉に従う人々が現れたことだろう。
その時彼らは「自分の物語」ではなく、「モーセの物語」でもなく、
「神の物語」の中を歩む者とされていったのである。




『 多く赦された者 』  ルカによる福音書7:36-50(9月8日)

人は誰でも、他者から受け入れられ認められることによって、
自分の存在に自信を持ちアイデンティティを築くことができる。
心理学者マズローの上げる「承認欲求(第4の欲求)」、
それが満たされないことはアイデンティティの危機である。

問題はそれだけにとどまらない。
どのような形でその他者からの承認を受けたか、ということも大切であろう。
それはその人の人格を決定づけることすらあると言える。

良いことをして褒められて育った人は、正しさ・善良さに価値を置き、
自分にも他人にもそれを求めるような「きちんとした」人になるだろう。
逆に、いろんな悪さをして叱られながら、許され受け入れられてきた人は、
同じような人の弱さを一方的に断ずることなく、
鷹揚に受け入れ、赦せる人となることだろう。

今日の箇所は、ファリサイ派のシモンという人の家に、
イエスが食事に招かれた時のことを記している。
ファリサイ派の人は「律法を守り『正しく』生きることが大切だ」、
そんなことを一般民衆に指導する立場の人たちである。

聖書の民にとって、律法は大切な戒律であることは言うまでもない。
しかし問題は、その分量があまりにも膨大なものになり、
庶民の日常生活を圧迫するようなものになってしまっていたことにある。

イエスはそのような「息苦しい日常」に風穴をあけ、自由な風を持ち込んだ。
それ故に律法学者・ファリサイ派とは対立的にならざるを得なかった。

そのイエスが、シモンの家に食事に招かれた。
するとその席に、ひとりの「罪深い女」がやってきて、
涙でイエスの足を濡らし頭から香油を注いだ。
シモンは心の中で思う。
「この人が真の預言者なら、この女が罪深い者であることがわかるはずだ。」
イエスはその心を見抜いて言われた。
「この人は多くを赦された。だから感謝の思いも深いのだ。
 それが彼女の行為に表れているのだ。」

一瞥すればこの箇所は、
シモンの狭隘な心をイエスが批判された出来事として読める。
しかし腑に落ちないことがある。
なぜこの女性は食事の席まで入って来ることができたのか?
そもそも、イエスはなぜシモンの家に食事に招かれたのか?

シモンは心のどこかで、ファリサイ派的な生き方の「息苦しさ」に気付き、
イヤ気がさしていたのかも知れない。
「正しく」生きようとすることよりも
「赦されて」生きることに真実なものを感じ、
自分たちとは対立するイエスの言葉や振る舞いに、
何か暖かいものを感じていたのかも知れない。

もしそうであるならば、
この出会いは彼にとっても新しい人生を開くものとなったことだろう。

自己中心的な私たちには、規律に従いわがままを捨てて生きることも必要だ。
しかし人間を本当に作り変えることが出来るのは、
そのような「厳しさ」よりも、むしろ「赦された」体験ではないだろうか。




『 神の前に心を開いて 』      詩編96編(9月15日)第3礼拝

「これもさんびか」発起人として『礼拝と音楽』誌の座談会に招かれ、
新しい賛美歌づくりについて話し合った。
そこで話題になったひとつが、新しい賛美歌を作ったとしても、
それを教会の礼拝で実際に使えるか?ということであった。
東神戸教会では、「これもさんびか」に限らず、アイオナ、トゥマミナ、南米賛美歌など、
結構『讃美歌21』以外の歌集からも使用している。
そのことを告げると「それは珍しい!」ということであった。

話題はそこにとどまらず、賛美歌の歌詞のメッセージの内容に及んだ。
賛美歌の歌詞にはある種の傾向がある。
「神への賛美・感謝、救いの喜び、罪の赦し」といったこと、
最近では「正義・平和、環境保全、共に生きる」といったテーマである。
中には「悩み、苦しみ」について歌う歌がないわけではないが、
それも最後には神に受け入れられる...といった前向きの歌詞に落ち着くものが多い。

しかし人間、常に前向きでいられるわけではない。
きれいな顔だけを見せて生きられるわけでもない。
誰もが「うらみ、つらみ、呪い」といったダークな面を、
多少なりとも抱えながら生きているはずである。
そういう心象を拾い上げる賛美歌があるだろうか。

「そういう内容は、賛美歌にはふさわしくない」という人がいるかも知れない。
しかしそれだと、信仰とは人間の現実の、
「ある一部分」にしか関わらないものになってしまうのではないか。
今回も新しい「これもさんびか」歌集には、いままでにないメッセージの歌が含まれている。
「誰もほめてくれなくても、神さまにだけはほめられたい」という赤裸々な思いを歌った歌や、
「私は親を愛せない。『父母を敬え』という教えに心をえぐられる」といった歌がある。
そんな正直な思いを綴った歌があってもいいのでは?という提案だ。

「新しい歌を主に向かって歌え」。今日の詩編の言葉である。
「新しい歌」とは何だろう?
私たちの心を常に支え励まし、慰めを与えてくれる...それが「新しい歌」だろうか?
もちろんそのような歌がこれからも私たちには必要だ。
しかし信仰が神の前に本当に心開いて祈る営みであるのならば、
人に見せられない、見せたくない部分を拾ってくれる歌も必要なのではないか。

詩編の少なくない歌が「嘆きの歌」である。
そこに歌われるのはウソ偽りのない人間の悩み苦しみであり、
神に対して半ば抗議するかのような言葉の数々である。
いにしえの信仰者たちはそれらの言葉に触れ、その歌を歌いつつ、
自分の中にどうすることもなく存在するネガティブな思いを重ね合わせて、
祈りの時を持ったことだろう。

それが本当に「神の前に心を開いて生きる」ということではないだろうか。




『 種をまく人 』     ルカによる福音書8:4-8(9月22日)

今年3月の修養会で、創立60周年を迎えるにあたり、
これからの教会の歩みについて語り合った。
その際に「そもそも教会にとって宣教・伝道とは何だろうか」という話題が出た。
日本はクリスチャン人口が1%に止まっていると言われる。その1%を超えること、
すなわち99%を「こちら側」に引き込むことが「宣教・伝道」なのだろうか。

「教会員の数を増やすことが伝道だ」とはっきり言う人もいる。
しかし私たちの教会のルーツである『社会的基督教』の人々にとって、
数を増やすこと自体が最終的な目標だったのではない。
教会の関わりの中でクリスチャンが生まれるとして、
そのクリスチャンが社会の中でどう働くか、
最終的には『神の国』の建設にどう参与するか、それが求められていた。

今、創立60年を迎えるにあたり、
私たちは「宣教・伝道」をどのように考えようとしているだろうか?

今日の箇所は有名なイエスの「四つの種のたとえ話」である。
「御言葉(神の教え)」という種を蒔くひとりの農夫。
それは「宣教・伝道」の働きを担う人のメタファーである。
成長せずに途中で枯れてしまった3つの種ではなく、
豊かに実った最後の種こそが大切なものだ ....
これまで、そんな解釈と共に読まれてきた聖書の箇所だと思う。

「宣教・伝道」というものが、
クリスチャンの数を増やすということを目的とする営みなのであれば、
良く実りそうな土地を見極めて種をまくことが有効であろう。
しかしこの人はそうはしない。いろんなところに種をまく。
私たちの目から見てムダに思えるところ、
「そんなところに蒔いても意味ないよ...」と思えるところにも蒔くのである。

結果として良い実を結んだ、という結論を先取りするのではなく、
たとえ実らなさそうに見えるところにも種を蒔く働き。
「宣教・伝道とは、そういうことだよ。」イエスはそう言っておられるのではないか。

たとえばCSの働きがそうだ。
蒔かれた種がすぐに実り(教会員)という形で返ってこないかも知れない。
しかしその子どもが成長する中でいろいろ迷った時、聖書の教えを思い出し、
どこか別のところで教会につながり洗礼をうけるのであれば、
それも宣教・伝道と言えるのではないか。

創立60年。「還暦=新しく生まれる」を迎える私たちの教会。
これからも種を蒔き続けよう。




『 神の選びのそのわけは? 』 申命記7:6-8(10月6日)

プロ野球のドラフトが近づいてきた。
選ばれる選手がいる一方、選ばれない選手もいる。
総じて能力の高い選手は指名を受け、低い選手は指名されない。
この世界は、完全な実力社会である。

ドラフトほどではないが、入社試験・入学試験なども、
テストの点数や面接によってその人の能力を査定する場である。
そこでも「有能」な人間が選ばれていくという現実がある。

キリスト教も「選びの宗教」と言われる。
私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選び、
イエス・キリストの十字架の贖いにより救いに定めて下さった。
そのことを信じる、という一面が、確かにキリスト教信仰にはある。

その選びの基準とは何か?
宗教改革者カルヴァンは、そこに人間の業が立ち入る隙はないと説く。
選びは完全に神の「予定」である、と。
われわれ人間にできることは、自分が「救いに定められている」と信じ、
その選びにふさわしい生き方をすることだけ。
カルヴァンの「予定説」である。
ここから勤勉・質素・実直な生活が生まれ、
資本主義というシステムが出来上がったという説もある(M.ヴェーバー)。

旧約聖書にも「神の選び」が数多く語られる。
神はこの世の人間からアブラハム(ユダヤ人)を選び、
契約を結び、救いを約束された。
「選民思想」は今もなお、多くのユダヤ人の信仰の礎である。

今日の箇所は、その「神の選びの理由」について述べられている箇所である。
神はエジプトで奴隷であったイスラエルの民を選び、
エジプトから救い出し、約束の地を賜った。
その理由は、彼らが優秀で優れていたからではない、と記される。
むしろ彼らが弱く、小さかった。
その弱い者を愛する愛ゆえに、神はイスラエルを選ばれたというのである。

それは我々の現代社会における選抜(優勝劣敗)とは違う基準である。
では、なぜ神は弱い者を選ばれるのか?その理由は分からない。
しかし聖書の示す神はそのような神である。
「そのような神さまで、よかったね」と思いたい。

もし神さまが、優秀で見込みある者は優遇するが、
力足りないものは切り捨てるような方だったら、どんな風に感じるだろう?
「いや、私はそれでもいいよ。自己責任だから。」と言う人がいるかも知れない。
しかしそれはその人が「自分には生き残る強さがあり、
能力がある」と自負していられる限りにおいてであろう。

けれどもそんな人でも、いつも強い人でいられるわけではない。
病気や事故、災害により、弱さを抱えざるを得ない時が来るかも知れない。
何よりも加齢により、肉体の弱さを抱えることは誰にも避けられない。
そんな時、人の能力や強さのみを評価し査定する眼差しに晒されることは、
耐えられないことなのではないかと思う。

神はこの世の弱い者を選ばれる。そしてそのことを通して、
この世界に新しい何かを始めようとしておられるのである。

神の選びの基準と、私たちの社会の機銃とは、相反することがあるかも知れない。
そんな時、私たちが「常識」と思っていることを、
問い直してみることが大切なのではないか。

一方で、自分の至らなさ・弱さを知り、それを認める。
一方で、この世の弱い立場にいる人々を支える関わりを大切にする。
それが聖書の示す信仰者の生き様である。




『 おかえりなさい 』    ルカによる福音書8:32-39(10月13日)

教会増築の落成記念講演会でお世話になった釈徹宗さん(真宗大谷派僧侶)が、
あるところでこんなことを言っておられた。
「すべての宗教にとって、最後に語るべき言葉は『おかえり』ではないかと思うのです」。
本当にそうだなーと得心した。

宗教は人間にとって心の拠り所となる営みである。
人生の教師・指南役であったり、自己反省・自己成長の契機を与えられたりする世界。
中には厳しい教えや修行を含む宗教もある。しかし究極的に目指しているのは
「あなたには帰るべき場所があるんだよ」というメッセージを届けることではないか。

今日の箇所は、ガリラヤの対岸・異邦人の地で、
イエスが行なった「悪霊憑きの癒し」を伝えている。
現代で言うならば精神の病を患う人に関わる出来事である。
彼はその症状ゆえに、街の中に住むことができず、
墓場に鎖でつながれるような仕打ちを受けていた。
そんな人がイエスに出会ったのである。

彼は言う。「いと高き神の子よ、私に構わないでくれ!」。
イエスにある種の権威を感じつつ、だからこそ関係を拒否する。
一番近くにいて欲しい人に対して、むしろ逆のことを願ってしまうアンビバレンツな態度。
不思議なことだが、人間にはそういうことがしばしば起こり得る。
この場合、それは彼が長い間人々との交わりから遠ざけられ、
不安と孤独の日々を過ごしていたことと無関係ではないだろう。

イエスはこの人を癒された。悪霊が豚の中に入って湖に飛び込んでしまったのだ。
すると街の人々は「すぐに出て行ってくれ」と申し出た。
ひとりの人の回復を共に喜ぶことよりも、
「めんどうなことに関わりたくない」という思いを優先したのであろう。

一方癒されたこの人は、喜びのあまりにイエスのお供をしたいと申し出た。
しかしイエスはそれを許さず、「自分の家に帰りなさい」と言われた。
病状の治癒で救いが完成するのではない。彼が帰るべき場所に帰ること、
すなわち社会復帰を果たすことこそが救いであり癒しなのである。

「宗教の最後の言葉は『おかえり』である」という言葉を紹介した。
その言葉が示すように、例えば教会が「おかえり」と言って
人々を迎える場所になるのも大切なことであろう。
しかし今日のイエスの姿から示されるのは、人をただ受け入れるだけでなく、
むしろその人にとって本当に帰るべき場所に押し出してあげる、
そんな関わりの大切さもあるということだ。

そうして私たちにとって大事なことは、世界中の人が見限っても、
それでも「おかえり」と迎えてくれる存在がある、ということ。
そんな神の愛を信じることである。


『 神の国の働き人 』    ルカによる福音書10:1-12(10月20日)

イエス・キリストには12人の弟子がいたことはよく知られている。
ユダを除く弟子たちはその後「使徒」と呼ばれ、初代教会の指導者となってゆく。

ではイエスに弟子は12人しかいなかったのか、というとそうではない。
他にもイエスに従った人々はいた。特に覚えたいのは女性の弟子の存在である。
彼女らもまた、イエスの宣教活動において重要な役割を果たしていた。
最大の功績は、イエスの復活の場面である。

男の弟子たちが皆、十字架に向かうイエスを見捨てて逃げ去った時に、
女性たちは最後まで共にいた。
男たちが部屋で隠れていた時に、女たちは墓に葬りの準備に出かけた。
自分の身の危険よりも、イエスへの思いを優先したその勇気ある行動。
そのことが彼女らを最初の復活の証人とならしめていった。

今日の箇所にも、12人以外の弟子の存在が記されている。
ルカだけが伝える記述によると、
「ほかに72人」がイエスの宣教を担うために派遣されたとある。
派遣に際してイエスは言われる。「収穫は多いが、働き人が少ない」。
神の国の福音に出会い救いを求める多くの人に対して、それを届ける人が少ない。
それで72人が選ばれたのである。

9章の1節以下には、12弟子を派遣した際のイエスの言葉も記される。
共通する部分もある。
「杖も財布もパンも持って行くな」
「誰も迎え入れてくれなければ、その街を出る際に足の埃を払い落しなさい」
宣教の最前線に出かける緊張感が漂ってくる。

しかし違う部分もある。
12弟子に「悪霊を追い出す権威」が与えられたのに対し、
72人には「祝福を語り、共に食事をすること」が勧められている。
「悪霊癒し」といったストレスワークに対して、
「共に生きる」というソフトな活動とも言える。

イエスは「あなたがたを派遣するのは、狼の群れに小羊を送るようなものだ」と言われた。
72人の人々に対する、イエスも心遣いを感じる言葉である。

総じて、72人に託された働きは、12弟子に比べれば
「軽いもの」「小さなもの」と言えるかも知れない。
しかしそんな彼らも、大切なイエスの弟子だったのである。

ある集団がその使命を果たすためには、一定の働き人が必要だ。
それぞれの働きは違う。多くを担う人がいれば、それができない人がいる。
そのことによって、序列や分断や非難が生じるならばそれは悲しいことだ。
そのような「破れ」を生み出さない、成熟した交わりを大切にしたい。

72人の人々。悪霊を追い出すような、「狼のような」強烈なパワーは持っていない。
小羊のような、弱く小さな力しか持たなかった人々。
しかし彼らはイエスに従う集団の中で、決して「お客さま」ではなかった。
出会う人に平和を語り、共に食事をし共に生きる。
その、自分にもできる小さなことを通して福音を宣べ伝える、
「神の国の働き人」だったのである。




『 スーパーマンには、なれなくても 』  ルカによる福音書10:25-37(10月27日)

横浜のJR線の踏切で、倒れていた老人を助けようとして、
電車に轢かれてしまった女性の出来事があった。
とても痛ましい出来事だが、とっさの行動を生んだその勇気には敬服せざるを得ない。
十数年前、新宿・新大久保駅でも同じような出来事があった。
古くは小説『塩狩峠』の中で描かれた「長野青年」の物語もある。

そのような一連の出来事は、それを見聞きする人々に大きな問いかけを与える。
「もしあなたがそこにいたならば、そんな時どうする?」と。
特に「自分を愛するように隣人を愛せよ」「人が友のために命を捨てるよりも大きな愛はない」
そのように教えられるクリスチャンにとって、その問いは重く深く響く。

この問いに、私は胸を張って「はい、できます!」と答えることができない。
「その時になってみなければ分かりません...」。
情けないが、そう応じるのが精いっぱいである。
しかし言い訳がましいが、「できる」「できない」と態度をはっきりさせることではなく、
どちらとも言えずに悩み葛藤することが正直で誠実な態度だと思う。

有名な「よきサマリア人のたとえ」である。
「自分を愛するように隣人を愛せよ」という、律法で最も大切な教え・その正解を知りながら、
「では私の隣人とは誰か?」と問う人に向かって、イエスはこの譬えを語られた。

当時の社会で指導者的役割を果たしていた人々(祭司、レビ人)が、
肝心の時にはてんでだらしなかったのに対し、
ユダヤ人にとって近親憎悪の対象であったサマリヤ人は、
強盗に襲われた旅人を助ける働きをした。
そしてイエスは言われる。「あなたも行って同じようにしなさい」。

イエスは律法の教えを「理解すること」ではなく、「実行すること」を求めておられる。
「私の隣人とは誰か?」と対象を探す問いではなく、
「私は誰の隣人になれるか」と問いつつ出かけてゆく道を示されるのである。

この譬えを読んで、イエスの言わんとすることは分かる。意図は「理解」できる。
しかしではそれが実行できるかというと、私たちはまた「理解」と「実行」との間に横たわる、
あの同じ「煩悶のループ」に再び陥ってしまうのである。

この譬え話を聞いて「喜んでサマリア人のようになります!」と言えたら完璧だ。
その人はスーパーマンになれるだろう。しかし私たちの多くは、そうではない。
少なくとも私自身は、正直言って同じようになかなかできない。
助けが必要な人がいるのを横目で見ながら、通り過ぎようとしたことが何度もある。
そんな時、この譬え話を思い出して、引き返したこともあるし、
そのまま通り過ぎてしまって、心の中に後味の悪さを残したこともある。
迷いつつ行ったり来たりを繰り返しているに過ぎない人間だ。

「そんな人にも救いはある」などと厚かましく言うつもりはない。
イエスも「それでよい」とは簡単には言って下さらないであろう。
しかし自分の現実はそこでしかない。そこから始めるしかないのである。

先日亡くなった「アンパンマン」の生みの親、やなせたかしさんのインタヴューが印象に残る。
「アンパンマンは、悪を打ち倒す『正義のヒーロー』ではありません。
 飢えた人に自分の顔を食べさせ、最後はヨレヨレになってしまう、カッコ悪い存在です。
 でも本当の正義とは、カッコいいものではないんです。
 自分が傷つくというカッコ悪さを通して、人々を助けてゆく、そんなヒーローを描きたかった。
 それがアンパンマンなんです。」

そんな記事を読んで、思った。私たちはスーパーマンには成り切れない。
でもアンパンマンにはなれるのではないか。
「いつも強く・正しく・美しく」振る舞えるワケではない。
迷いつつ、悩みつつ、最後はヨレヨレになりながら、
それでも助けを求めている人を放っておけない...。
そんな姿で、イエスに従っていくことができるのではないか、と。

スーパーマンやサマリヤ人のように、完璧にカッコよく振る舞えない私たち。
でもその小さな一歩を踏み出すこと。
それを待っていて下さる方がいる。




『 悲しみを知るからこそ 』   申命記8:11-18(11月3日)

私たち人間には、家族や友人といった身近な人が亡くなることを
悲しみをもって受けとめる心が備わっている。
自然界の生き物のように、淡々とクールにその現実を受け入れることは、なかなかできない。
「どうしてこんな悲しみや苦しみを味合わねばならないのか」という問いは、
誰もが一度や二度は抱いたことのあるものだろう。

今日の聖書の箇所は、そんな問いにひとつの応答を与えてくれる。
エジプトの奴隷の状態から解放され、「約束の地」カナンへと向かうイスラエルの民。
しかしその祝福の地に入る前に、40年荒野を彷徨うという苦しみを味合わねばならなかった。

「救いの神ならばパッと救ってくれればいいではないか」と思うが、
旧約聖書はそのような安易な道は語らない。
そのようにパッと救われて、何でも思い通りになると、人間は必ず傲慢になる。
そのような心を戒め、大切なことに気付かせるために、
いくつかの苦しみや試練が備えられているというのである。

「あなたがたを苦しめて試し、ついには幸福にするため」という言葉が語られる。
目の前に横たわる、様々な災難や試練。そのことで覚える苦しみや悲しみ。
しかしその苦しみ・悲しみを知るからこそ気付けることもある。
それは「それでも人々に与えられている恵み」であり、悲しむ人々を支える力である。
それに気付くことを通して、人は傲慢さから解放され、豊かにされてゆくのだ...。
そんなメッセージが浮かび上がる。

私たちに「身近な人の死を悲しむ心」が備わっているのも、同じことではないだろうか。
人によっては「もっと淡々と受けとめられたらどんなに苦しまなくてすむだろう」
そんな風に思うこともあるかも知れない。
しかしその悲嘆に沈む中で気付かされることもある。
それは、「今ここで与えられているいのちの尊さ」というものである。

パール・バックの小説に、「つなみ」という短編がある。
日本の雲仙に滞在していた時に聞いた話を元にして書かれたと言われている。
身近に起こった津波の被害を体験して、その理不尽さを思うあまりに
「こんなに災害の多い日本に生まれて損してるのではないか」と父親に問う主人公の少年。
するとその問いに対して、父親が語りかける。

「人は死に直面することでたくましくなるんじゃ。だから、わしらは、死を恐れんのじゃ。
 ちょっとぐらい遅う死のうが、早う死のうが、大した違いはねえ。
 だがな、生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること、
 木や山や、そうじゃ、海でさえ、どれほど綺麗か分かること。
 仕事を楽しんですること、生きる為の糧を生み出すんじゃからな。
 そういう意味では、わしら日本人は、幸せじゃ。
 わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ。
 わしらは、死を恐れたりはせん。
 それは、死があって生があると分かっておるからじゃ。」

この父親の言葉を、「死の悲しみを知るからこそ、生の喜びを知ることもできる。」
私たちは、そのように読むことができるのではないか。

申命記においてモーセは語る。
「あなたは『自分の力で富を築いた』と考えてはならない。
 富を築く力を与えられたのは主である。」
この「富」という言葉を「いのち」と置き換えて受けとめたい。

                  (召天者記念礼拝)




『 本当のおもてなし 』    ルカによる福音書10:38-42(11月10日)

教会の中で、しばしば性別による役割分担のことが話題になる。
力仕事や高いところ、「表」に立つ役割は「男の仕事」。
台所やそうじ、「裏方」の働きは「女の仕事」。
「そんな暗黙の決め事・固定観念がありはしないか?」ということが問いかけられる。

今年のクリスマス愛餐会は、皿洗い等の後片付けを男性でやることにした。
実は祝会の最中に後片付けを始めてしまい、プログラムに分断が生じることが何度もあった。
その「ちょっと早めの後片付け」を始める度合いは、圧倒的に女性に多い。
それだけ、暗黙のうちに「後片付けへの義務感」を感じている女性が多いということだろう。

そこで今年は男性陣が中心になって後片付けをやろうということになった。
「食事の後片付けは男たちに任せて、女性たちはプログラムを最後まで楽しんで下さい」と。
楽しみながら「役割分担の固定化」を、少しでもほぐせればと願っている。

今日の箇所は、よく知られた「マルタとマリヤの物語」である。
ヨハネ福音書(11章)の記述と合わせると、対称的な姉妹の姿が浮かび上がる。
「快活で多弁なマルタ」「物静かで寡黙なマリヤ」といったイメージである。
イエスの一行を迎えて、あれこれとおもてなしの準備をするマルタ。
一方でイエスのもとに座って話を聞いているマリヤ。ここにも一種の役割分担がある。

「何で私ばっかりこんなに忙しいの?」不満を抱いたマルタは、ついイエスに不平を漏らす。
「妹にも手伝うよう言って下さい!」この気持ち、分からなくもない。
この後マルタはイエスにたしなめられる。
読みようによっては叱られているようにも取れるが、何ともマルタが気の毒に思えてくる。
同じような不平・不満ならば、私たちも日常的に抱いてしまうからだ。

イエスは「大切なことはただ一つ。マリヤはその良い方を選んだ」と言われた。
イエスの言葉を聞くこと、すなわち「御言葉への集中」が何よりも大切なことだ...
そういう意味なのだろうか?どこかしら浮世離れした解釈にも思える。
なぜならそう語るイエスだって、また「御言葉に集中する」マリヤだって、
お腹がすけば誰かが用意したごはんを食べることになるからだ。

イエスは、マリヤの態度の方が「優れているから」褒められたのでもなければ、
マルタの働きが「劣っているから」叱られたというのでもないだろうと思う。
イエスはマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われた。
もしマルタの心に「イエスをもてなしたい」という一心があるのみだったなら、
イエスはこんな風には言われなかっただろう。
しかしマルタには別の思いもあった。イエスはそこを見ておられるのである。

マルタも本当はマリヤのようにイエスの話を聞きたかったのではないか。
「ちゃんとしたおもてなしをせねば...」という義務感に気を取られ、
本当に自分がしたいことが見えなくなって苛立っているマルタ。
そんな彼女をイエスはやんわりとたしなめられたのである。


オリンピックの招致活動で語られた「お・も・て・な・し」という言葉が話題になった。
本当の「おもてなし」とは、何だろうか?
それは出来る限りのご馳走を準備して、見栄や体裁を整えることではない。
不安な状況があるのに「完璧にコントロールされている」と虚栄を張ることでもない。
本当のおもてなしとは、自分と相手とがその時本当に願っていることを、
心から大切にする態度のことではないだろうか。

宣教の旅を続ける中で、イエスが本当に願っておられたこと。
それはひとりでも多くの人と出会い、神の国の福音について語り合い、
そしてひとりでも救いにあずかることであった。

本心では、自分も食事の準備など放っておいて、イエスの話を聞きたかったマルタ。
そんな彼女に向かって、イエスはこんな風に呼びかけておられるように思う。

「マルタ、マルタ。あなたもこっちに来て、一緒に話をしようじゃないか。
 お腹がすいたら、後でみんなで一緒に食事の準備をすればいい。」

その言葉を聞いて、最初ちょっとふくれっ面をして、
でもその後、思い直して笑い、イエスの元へ進む...
そんなマルタの姿を想像するのである。




『 天に宝を積む 』(CS合同収穫感謝礼拝)  ルカによる福音書12:13-21(11月17日)

私たちが生きていくために必要な食べ物。
それは神さまの恵みと、生産農家さんや漁師さんたちの働きによって与えられたものです。
神さまと人々に感謝する心を大切にしましょう。
「お金を払えば、何でも買える」というのは思い上がりです。
むしろ「私たちに代わって食べ物を作ってくれてありがとう」という思いを込めて、
お金を払ってお礼をするのです。

収穫を感謝するときに大切な心構えがあります。
それは「分かち合う」ということです。
作物を実らせる太陽の光。誰もそれをひとり占めはできません。
だとしたら、その太陽の恵みから実った収穫も、
ひとり占めせずに分かち合うことが大切です。

イエスさまのたとえ話に、収穫をひとり占めしようとした愚かな人のおはなしがあります。
それはこんなお話です。

ある人の畑が豊作となりました。
穀物のすごいところは何年も保存が効くところです。
野菜や果物、肉や魚はそうはいかない。取れ過ぎたら分かち合うしかない。
ところが穀物は財産になるのです。

この人はそれまで使っていた倉庫を壊してもっと大きいものを作り、
そこに収穫を全部しまいこみました。
「さぁこれでこの先何年も困らないぞ!何年も楽して生きられるぞ!」

ところがその夜神さまがその人に言いました。
「愚か者よ、お前の命は今日で終わりだ。
 そうしたら貯えたものはだれのものになるのだ!?」。

最後にイエスさまはこう言われました。
「自分のために富を積んでも、神の前に富まない者は、これと同じだ」。
「神の前に富む」ということは「天に宝を積む」ということです。
天に宝を積む?本当にそんなことができるのでしょうか?

イエスさまはその方法を教えてくれています。
「あなたの持っているものを貧しい人に施しなさい。
 そうすれば天に宝を積むことができる。」(ルカ12:33)。
助けを求めている人に必要なものを分かち合う。
するとそれを神さまはちゃんと見ていて下さる。
そうすれば天に宝を積むことができる、というのです。

東神戸教会では毎年、収穫感謝の礼拝に合わせて、
福島県の山都教会員・斎藤仁一さんの作られた新米を送ってもらっています。
今年もメッセージと共に、おいしく採れたコシヒカリの新米を送ってくださいました。

斎藤さんは1995年の阪神大震災以来、「困ってる神戸の人に役立ってもらいたい」と、
ずーっとお米を送り続けて下さった人です。
神さまからいただいた収穫を、ひとり占めしないで分かち合って役立てる。
イエスさまから教えてもらった大切なことを、実行してこられたのです。

以前、斎藤さんに丈夫でおいしいお米の作り方を教えてもらったことがあります。
どうすればおいしいお米を作ることができるか?
「作り過ぎてはいけない」ということでした。

一枚の田んぼからたくさんのお米をとろうとしてたくさん苗を植えると、
病気になりやすくなったり、風が通らないので台風で倒れてしまったりするそうです。
ギチギチに苗を植えないで、間隔をあけて植える。
すると収穫の量は減りますが、その分丈夫でおいしいお米に育つそうです。
「あんまり欲張りすぎないことだね」と言っておられました。

そうやって作った大切な大切なお米を、震災の苦しみを負う神戸のために、
毎年毎年送り続けて下さったのです。
斎藤さんは「天に宝を積む」人なんだと思います。

その斎藤さんの住んでいる福島県。農家の人は今とても大変な状況に置かれています。
東日本大震災、その後起こった福島第一原発事故によって、
放射能が多くの畑や田んぼに降り注いでしまったのです。
斎藤さんのお米は出荷前に検査を受けています。
「放射能の数値は検知されないほど低いので大丈夫」と販売の許可を得ています。
特に50歳以上の大人の人は、食べても大きな影響を受けることはない数値です。
でも「ゼロじゃないので、赤ちゃんや子どもには食べさせられない」という人もいます。
どちらも間違ってはいない。これはとても難しい、ややこしい問題です。
でも面倒くさがらずに考え続けなければならないことだと思います。

もし可能な人は、斎藤さんのお米を買うことで、せめてもの支援をして下さい。
以前、神戸のことを支えてくれた斎藤さんの働きに、
何らかの形で応えていただければとてもうれしいです。

ひとり占めの心。欲張りの心。「自分さえよければ」という心。
誰もが持っている心です。でもそんな心のままでは、天に宝を積むことはできません。
そういう心を乗り越えて、困っている人を支えようとすること。
「それすれば天に宝を積むことができるよ。」とイエスさまは教えて下さいます。
わたしたちも天に宝を積む者となりましょう。




『 それでもあなたを見捨てない 』     ルカによる福音書13:6-9(11月24日)

長崎のキリシタン遺跡巡礼の旅に出かけてきた。
自分の信仰を貫いて殉教の死を遂げた人々がいる一方で、
現世の命を手放せずに踏み絵を踏み、仏教徒のふりをしながら信仰を保った人々もいた。
いわゆる「かくれキリシタン」の人たちである。

殉教者たちの心理はピュアである分、シンプルでもある。
殉教することによって天国に行けると信じていたからだ。
一方、かくれの人々の心理は複雑だ。
形の上では裏切っている。しかし心の奥底では信仰を手放せない。
そんな人たちの後悔、自責、疾しさといった感情。
そのひとつひとつ拾ってきた宗教性に「深さ」を感じる。

多くの「かくれ」がいたとされる、外海(そとめ)海岸に建つカトリック教会の聖壇。
まん中にキリスト像、左には大天使ミカエルの像、そして右側に聖母子(マリア)像。
祈りのために取り付けられた手すりが、圧倒的にすり減っていたのはマリア像の前だった。
彼ら「かくれ」の人たちを慰めてきたのは、聖母(マリア)信仰であったと感じた。
「厳格な父なる神」ではなく、「慈愛と赦しの母なる神」のイメージである。

旧約の神は厳しい裁きの神」であるのに対して、
新約の神は「愛と赦しの神」であるとよく言われる。
イエス・キリストに厳しい側面がなかったわけではないが、
しかしその譬えを通して語られる神は、確かに多くが赦しの神の姿であった。
今日の箇所もそんな中のひとつである。

ぶどう園に植えられた、実を結ばないイチジクの木。
それは「悔い改めにふさわしい実」を結ばない人々の姿である。
ぶどう園の主人は「そんな木は切り倒してしまえ!」と言う。
罪に対して裁きを下す、厳格な父なる神のイメージだ。

すると園丁が現れて言う。
「もう少し待って下さい。私が世話をしてみます。
 それで来年実をつけなければ、どうぞ切り倒して下さい」。
神の裁きを見るがままにまかせるのでなく、
間に立って何とかそれを防ぎ止めようとするこの園丁。
それは我が子をかばい、何とか立ち直らせようとする母親のような存在だ。
そしてそれは、イエス・キリストの姿に他ならない。

人間は信仰の理想を100%実現できる存在ではない。
その破れをかかえた人間を、
「それでもあなたを見捨てない」と、永遠のとりなしをして下さる方がいる。
その愛があるからこそ、私たちはもう一度やりなおしていけるのである。

長崎巡礼の旅の中で感じた、もうひとつのことがある。
母のような全面受容の深い愛。
それを信じるからこそ生きられた人々がいたのは事実である。
しかしその全面受容の愛は、下手をするとずぶずぶの自己肯定や居直りを生みかねない。
それを生み出さないためにも私たちは、「それでいいのだ」という宣言と同時に、
「あなたは本当にそれでいいのか?」という問いかけも同時に聞きとらねばならない。
それが、「それでもあなたを見捨てない」と言って下さる方への、
私たちの誠実な応答と言えるのではないだろうか。




『 主の約束を信じる 』  マルコによる福音書13:28-37(12月1日)

子どもの頃歌っていたクリスマスのさんびか「かみさまのおやくそく」(幼児さんびか27)
その2番の歌詞に「これはすごいことが歌われている!」と思わされた。
「とうとい方のお生まれを、みんなで楽しく祝おうと、
 その日数えて待つうちに、何百年もたちました」。

救い主の到来を「何百年も」待つ信仰。
それは自分の生きている間には、救いの訪れを知り得ないかも知れないということだ。
先祖から受け継いだ信仰を、孫子の世代に受け渡してゆく。
その大きな時間軸の中で「救い」をとらえようという姿勢である。

今日の箇所はマルコによる福音書の「小黙示録」、
イエス・キリストがやがて訪れる「主の日」、すなわち終末について語られた場面である。
今の世の秩序が崩れ去り、最後の審判を受ける。
聖書の中では「黙示文学」というジャンルで描かれる世界である。

教団の聖書日課の箇所であるが、
「なぜアドヴェントにこんな箇所を?」と思わなくもない。
旧約のメシヤ予言や新約の牧歌的な降誕物語の方が、
この季節には似合っているように思う。
しかし、救い主の到来を「何百年も待ちました」という信仰は、
実は極めて黙示録的要素の強いものと言える。

今日の箇所のイエスの予言、その個々の言葉の内容。
それにどんな意味があるかを辿る読み方もあるだろう。
しかしこのような黙示録的予言そのものが指し示すメッセージがある。
それは「今この時代(苦難・迫害)がいつまでも続くわけではない」ということ、
「いつの日かこの世の権力や秩序がひっくり返され、あなたがたが救われる日が来る。
 その日を信じて待ちなさい」ということである。

私たちは現実の苦しみそのものよりも、
「それがいつまでも終わらない」ということに絶望を感じる。
しかし聖書は「それはいつか必ず終わる。
主の約束を信じて待ちなさい。」と語りかけるのである。

ただし、そこにひとつ加えなければならないことがある。
「主の約束」が実現する日の到来。
それはあなたの生きている間ではないかも知れない、ということである。
「それでもあなたの子が、孫が、その救いに与れる日を、信じて待つ」。
それがメシヤを待ち望む信仰である。

「何百年も待ちました。」というさんびかの歌詞を歌いながら、二つのことを思う。
ひとつは、最近訪れた長崎のキリシタン巡礼の旅。
弾圧の時代に潜伏して活動したバスチャンという修道士がいた。
山の中の掘っ立て小屋に隠れて住み、信者の間に教えを説いて回りながら、
最後は見つかって処刑をされた、伝説の日本人修道士である。

そのバスチャンが残したと言われる予言の言葉が伝えられている。
「七代先までは主のご加護がある。その先は分からない。
 しかし心配はいらない。コンヘソーロ(告解神父)が黒船に乗ってやって来る。
 その日には毎週コンヘサン(告解)ができるし、キリシタンの歌がうたえる。」
この言葉を胸に抱いて、潜伏して信仰を守った人々が「かくれキリシタン」である。
それから200年以上経過し、幕末・開国の時代にプチジャン神父が来日する。
彼の開いた大浦天主堂に、ある日ひと組の家族が現れて、言った。

「わたしたちはみな、あなた様と同じ心にございます。
 サンタマリヤ様のお像はどこ?」

世界のカトリック信者に衝撃を与えた、「かくれキリシタン」発見の瞬間である。
七代先までは守護がある...その言葉通り、二百数十年もの年月を、
約束の言葉を信じて信仰を守り生き抜いた人々がいたのである。

もうひとつのこと。それは「フクシマ」のことである。
東日本大震災、原発事故により、放射能に汚染された土地。
ふるさとに今も帰れない人々。帰っても悩みながら生きるしかない人々。
いつ終わるかも分からない、場所によっては数十年・百年以上手がつけられない。
本当に辛い辛い状況が、いまも現実に続いている。

しかしその放射能にも、半減期がある。
私たちには長大に思える時間ではあるが、地球の歴史の中では僅かな時間とも言える。
その一定の時間が過ぎれば、またおだやかな自然の中で、暮らせる日が来る。
子どもたちが歓声を上げて、大地を駆け回り遊ぶ日がやってくる。
そんなまなざしをもって、ふくしまのことを思い、祈り続けることの大切さを思う。

今日の箇所のイエスの言葉を、改めて心に刻みたい。

「はっきり言っておく。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」




『神の掟・昔の人の言い伝え 』   マルコによる福音書7:1-13(12月8日)

福島第一原発事故で非難を余儀なくされている浪江町のお寺に伝わる
「親父の小言」という教訓がある。居酒屋のトイレなどでよく目にするものだが、
これが震災からの復興を目指すシンボルとして、日本酒のラベルに貼られて売り出された。
あたりまえのことだけど大切なことを、それとなく気付かせてくれる言葉の数々である。

私たちの社会には、人が生きる上での指針とすべき教訓や家訓といったものがいくつも存在する。
聖書においては、神から授かった戒めである十戒・律法がある。
また人間が長く暮らす中で生み出してきた言い伝えの類は、
あらゆる共同体の要として代々受け継がれてきた。
たったひとりで無人島や山の中で暮らすのでない限り、
人間はそのような戒めごとと無関係ではいられない。

イエス・キリストはすべての人に救いを与える救い主として世に来られた。
そのキリストの働きのひとつに、「神の戒め」を新たな形で与えるというものがあった。
今日の箇所は、イエスが神の戒めと昔の人の言い伝えの関係について語っている箇所である。
より正確に言えば、神の戒めと昔の人の言い伝えとが対立するとき、
どうふるまえばいいかを示す箇所と言える。

強い選民意識を抱くユダヤ人たちは、言い伝えに従って食事の前に丁寧に手を洗った。
衛生観念からではなく、異邦人の「汚れ」が伝染すると考えられていたからだ。
言わば異邦人の存在を一段低く見る意識、「差別」意識が内面にあると言える。

イエスと弟子たちは殊更念入りに手を洗うことなく食事を始めた。
異邦人を見下げる意識がなかったから、もしくはそれを乗り越えていたからだ。
ところがそんな姿を、ファリサイ派の人たちは見咎め、非難した。

一方自分たちの日常生活においては、「コルバン(供え物)の言い伝え」によって、
父母に対する養育義務を疎かにする生き方を続けていた。
「このパンは供え物にするものだから、あなたにはあげないよ!」と。

イエスはそんなありようを、
「モーセの十戒『父と母を敬え』よりも、人間の言い伝えを優先する姿」と批判する。
異邦人を心の中で見下し、父母を扶助する歩みを疎かにする、
それは「神の掟」に反することだ、と。

ではイエスの示される新しい「神の掟」とは何か。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)
ファリサイ派の人たちに決定的に欠けていたのは、この「愛」である。
まさに「どんな立派なわざも、愛がなければ無に等しい」(ローマ13章)。

逆に言えば、どんなにつたない働きでも、そこに愛があれば、
神の御心に見合った祝福された歩みへと必ず導かれる。
イエス・キリストはそのようなことを教えるために、世に来られたのだ。

「互いに愛し合う」それはイエスによって与えられた新たな「神の掟」である。
この掟は人間を束縛し委縮させるものではない。
むしろ豊かに開いていくものである。




『 ひとりも滅びないように 』    ペトロの手紙 二 3:8-14(12月15日)

キリスト教の独特の世界観のひとつに、終末・最後の審判という考え方がある。
ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの絵が有名だ。
「その日に裁かれないために、信仰に道を整えよ!」そう教えられる物語である。

しかしその教えを、信者から献金を集める方便として都合よく用いたのが
中世カトリック教会の「免罪符」であった。
「天国と地獄」の価値観で人を脅すような宣教のあり方には問題を感じる。
その腐敗した教会のありようを批判したルターが、
免罪符を焼き捨てたところから宗教改革(プロテスタント)が始まった。

今日の箇所が含まれるペトロの手紙にも、終末の思想が描かれる。
キリスト教への迫害の時代。
迫りくる終末への期待を抱かざるを得ない状況の中で記されたものだ。

「再臨が遅い。なかなか来ない...。」と不安を抱く信徒に対し、
「わたしたちにとっての千年は神の一日だ。」と時間軸の次元の違いを語り、
「その日は盗人が来るように突然やって来る。」と語りかける。
今のこの苦しみが永遠に続くのではない。だから忍耐を続けなさい、という教えだ。

そのような緊張感を抱いて生きる大切さはよく分かるのだが、
「その日には自然界の諸要素は熱に溶け尽くし...」(10節)、とか
「天は焼け崩れ、燃え尽き、溶け去ることでしょう」(11節)といった言葉は、
決して穏やかには聞けない言葉である。

私たちはそんな日はなるべくなら来てほしくない、と考えるが、
今日の箇所では「信心深く生活し、その日が来るのを早めるようにすべき」と教えられる。
「その日に救われるために信仰を持ちなさい」...そういうことなのだろうか。

複雑な思いを抱きつつ読む箇所だが、その中に大切なひと言が書かれている。
「主は、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと忍耐しておられる」(9節)。
この一節に救われる気がする。
「信仰を持つ者には救いを、それ以外には滅びを」という単純な色分けではなく、
「ひとりも滅びないように」と願っておられる、それが神のみこころではないだろうか。

信仰を持ったから救われるのではない。
そうではなく、「神はすべての人を救おうとされている」、
そのことに気付くことが信仰なのではないだろうか。




『 深い闇の中で、夜明けを待つ 』   ルカによる福音書1:39-56(12月22日)

イエスの母となったマリアと、
バプテスマのヨハネの母となったエリサベトとの出会いである。
エリサベトがマリアに贈った祝福には、
「祝福」「幸い」といった言葉が散りばめられている。

けれども私には何故かこの場面が、「幸せの絶頂」といった輝くものに感じられない。
むしろそれぞれに重荷や課題を抱えた二人が、これからも困難な道を歩まねばならない中で、
それでも「ここに神の祝福がある」と信じる...。
いや、「そう信じないとやっていけない」という思いを抱く中で、
互いに支え合っている姿に思えてならない。

マリアはヨセフとの婚約中、つまり結婚前の懐妊を知らされた立場である。
場合によっては「石打ちの刑」に処せられかねない境遇だ。
一方のエリサベトは、逆に長い間子どもを授かることがなかった。
祭司の妻として、いろいろな中傷を受けたことだろう。

その境遇は、世間が普通に考える「幸せ」からは離れたところにあるものだ。
しかしそんな中を生きていた二人だからこそ、神の救いを心から求めていたのではないか。

エリサベトの祝福を受けたマリアが歌う『マリアの賛歌』。
その内容は驚くべきものである。
身分の低い者に目をとめ、主を畏れる者を憐れみ、
思い上がる者・権力者を引きずり降ろされる神。
選ばれたエリートや、脚光を浴びるスターには、こんな歌はうたえない。
彼女自身さげみを受ける道を重ねてきたからこそ、
このような神の働きを歌うことができたのであろう。

マリアもエリサベトも、暗闇の中に沈むようにして生きて来ざるを得なかった人たちだった。
だからこそ夜明けの光の輝きを、誰よりも強く求め、
敏感にそれを感じることができた人だったのではないだろうか。

 ♪子どもが産まれる前には痛みがある。
  主よ、教えて下さい。なぜ夜明け前はこんなにも暗いのか。
  それでも主よ、私は夜明けを待ち続けています♪ (U2“YAHWEH”)。

今も私たちが現実の世界を見渡す時に、そこに深い闇を感じることがある。
けれどもそんな時こそ、それでも夜明けを待とうとすることのできる者でありたい。
そして、あのイエスの語られた言葉を想い起こす者でありたい。

 「あなたがたには世で苦難がある。
  しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

クリスマス、深い闇の中で夜明けを待つ人々に、神の祝福がありますように。

(2013年クリスマス礼拝)




『 帰れや、わが家に 』  ルカによる福音書15:11-32(12月29日)

年末、大掃除の時期は、思いもよらない探し物が見つかる季節でもある。
クリスマスの後、講壇の下にある物入れを整理していて、
3年前に見失った愛用のボールペンのキャップを発見し、小躍りして喜んだ。
まさに「失われたものが再び見出される」、小さな奇跡であった。

ルカによる福音書には「無くした銀貨を見つけて喜ぶ女」のたとえ話がある。
「友だちや近所の人を呼び集め『一緒に喜んで下さい』と語った」とある。
そのような喜びの体験は誰にでも心覚えのあるものだろう。

今日の箇所はそれに続く「放蕩息子」のたとえ話である。
財産の半分を分けてもらいながら放蕩に身を持ち崩し、最後のすがる思いで父の元に帰る弟。
そんな彼を父は両手を広げて迎え入れ、宴会を催して喜んだ。
「神は私のような放蕩に身を任せた者をも顧み、帰ってくるのを喜んで迎え入れて下さる」...
そんな思いと共に読まれ親しまれてきたイエスのたとえである。

けれども、この一連のたとえ話(百匹と一匹の羊・無くした銀貨・放蕩息子の譬え)は、
弟のような人に向けて語られたものではない。
そうではなく、弟のために父が喜ぶ姿を見て
不平を漏らす兄のような人々に向けて語られたものなのである。

イエスが徴税人や罪人と交わるのを見て、これを批判した律法学者・ファリサイ派の人たち。
弟のような立場の人が救われるのを心から喜べなかった人たちだ。
そんな人たちに向けてイエスはこの譬えを語られたのである。

あなたがたは「喜びのない義務感」で行動し、人を裁いている。ちっぽけな言い分だ。
そんなちっぽけな心を離れて、神の御心を思いなさい。
神はどんな人でも悔い改めてその元に帰るのを、
失われた羊や銀貨や息子(キャップ)を見つけた人のように喜び迎えて下さる方だ、と。

自分のちっぽけな努力にしがみついて、自分を人よりも「マシ」な人間だと思う心を離れ、
自分の過ちを認めて悔い改める心を大切にしたい。
「帰れや、わが家に」。
神さまは今日もそう呼び掛けておられるのだから。




 
 
 日本基督教団 東神戸教会 〒658-0047 神戸市東灘区御影3丁目7-11  TEL & FAX (078)851-4334
Copyright (C) 2005 higashikobechurch. All Rights Reserved.